単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

クチナシの焦げた葉にやる冬の水

これは2021年アドベントカレンダー「提供」第16日目の記事です。

前回は、引っ越しますという話と、引っ越しても文章を書いていられますようにという怯えた祈りについて書きました。個別に声をかけてくださった方、ありがとうございます。元気出ました。

今年のアドベントカレンダーを少し読み返したところ、文章を書く話ばかりしていた。別の観点の「提供」の話もしておきたく思います*1。うーん、ハウスキープの話とか*2

草花を飾る暮らしがしたい

家に花をね、飾れたらいいなって思うんですよ。だけど私、切り花に向いてないんだな。毎日水を換えたり、蕾や花の様子を見たり、ということができない。一回、放置していた花を久しぶりに引っ張り上げたらむちゃくちゃかびていたことがあって、それから切り花は買わなくなった。

鉢植えの方が向いてる

去年のゴールデンウィーククチナシの鉢を買ってわかったことには、私、鉢植えの方が向いているらしい。少し放っておいても大丈夫なところもありがたいし、年単位で生きていてくれるのもいい。家に水気ある土があるのもいいし、土に苔が生えてきたのも嬉しい*3

最初はサムネ画像の通り机の上に置いていたのだけれど、植え替えをしたら置けなくなり、今は外に出てもらっている。

苦労のクチナシちゃん

向いているとは言ったが、今年は苦難を与えてしまった。(虫の話で恐縮ですが)春先には蛾の幼虫が10を超えて付き、若芽と蕾が軒並み食われてしまったり*4、夏には数日留守にした間に水不足と陽光で葉が焼け焦げてしまって、無情に剪定する羽目になったりした。私の不行き届きで余計なダメージを与えてしまったが、それでもちゃんと新芽を付け、秋には(咲かないけど)蕾も出す*5。生きててえらいなあと思う。

他者を心に入れる

『キッチン』のえり子さんが、「本当にひとり立ちしたい人は、なにかを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからがはじまりなのよ。」って言ってた(吉本ばなな『キッチン』、角川文庫(1998)、p60)。意味がわかっているわけではないけれど、印象深くて覚えている。鉢植えを食われたり焦がしたりした私は、少し実感に近づいたような気がする。自分ではないものの状態を日々気にかけ、手をかけてやること。何年も付き合っていくために。

次の家にも、鉢のクチナシは一緒に行くだろう。春には何はなくとも除虫剤を撒こうと思う。

 

今日はここまで! よし、ライトな記事が書けましたな(?)。明日は何の話をしようかな。

何かあればどうぞ!

*1:「女性性の提供」は今日は間に合わなかった。どっかで出せるかな……どうかな……。

*2:家事は「提供」なのかという話には触れないことにする。一人暮らしだって自分自身のもてなし的な意味でやる丁寧な家事は自分から自分への提供だと思うし、誰かと暮らしている時に誰かの分も何かをするのは「提供」と言ったっていいと思う。ただ、前の記事にも書いたように、「提供」が「犠牲」の意味を伴うと途端に論争の火種になりそうなので、あんまり触れないようにしたい。というか、自分が傷つくからかな。一緒に暮らしている人の生活をできる範囲で支えることはごく自然な振る舞いだと思うのに、それを自己犠牲だと呼ぶのは。

*3:ふかふかの苔が大好きです。

*4:葉に小さな穴が空いていることには気づいていたが、放置していたのであった。その時にもっとよく観察して原因を突き止め、除虫剤を使っていれば蕾が全滅することもなかったのにと、ひとしきり凹んだ。虫は得意ではないが、怒り(主に愚かな自分自身への怒り)と悲しみ(これは無残な姿になったクチナシちゃんへの悲しみ)を胸に、へっぴり腰ではありつつも、物理(剥がして屋外へやった)と化学(除虫剤)で殲滅した。

*5:去年の春、まだ机の上にいたクチナシが、連日新しい蕾をもつのを見ていた。全部は咲かないけど、お構いなしに増えていく蕾を見て、生き物って、増えるのが自然なのだなあと、なんだかしみじみ思ったのだった。それで、子ども、いてもいいかも、って思った、のも確か。2020年の春の話。