単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

なくても死なないものを愛でて生きる / 正気を失いたいという欲求

これは2020年アドベントカレンダー「感情と意思」第7日目の記事です。もう一週間分書いたんですか!?

 

昨日は「やったらうまくできそうなことや、試したら好きになりそうなことはたくさんあるが、時間・体力・集中力・情緒などの都合上、全部はできない」という話をしました。

pinnni.hatenablog.com

 

今日はその続きで、選ばないものとの折り合いをどうつけるか、という話をしようと思います。*1

似たような話をした

今年の6月に、似たようなトピックで話をしていた。

note.com

ここで言っているのは、以下のようなことだ。

  • 私には「関わるからには大好きにならねばならない」という強い思い込みがあり、新しいことを始めるのに長い時間がかかる
  • 「大好きゆえ、全力で愛する」という姿勢でなくても、新しいことを始めてよいのではないか、と気が付いた
  • 始めたいと思ったけど高価だなと思ったら、資本主義社会のせいなので、あきらめる(自分を責めない)

なくても死にはしないもの

昨日も書いたように、世は大コンテンツ時代である。現代日本社会では、生活に必要なもの、洗濯機とか冷蔵庫とか炊飯器とかスマホとかは、ほとんどの人が持っている。だから物を売りたければ、「絶対に必要というわけではない」ものを売ることになる。

生活の癒しだったり、スカッとする息抜きだったり。

私は今、つい、スマホゲームを思い浮かべているんだけど、例えば……COVID-19流行下で脚光を浴びたサブスク動画配信サービスとか、自宅用コーヒーメーカーとか、家族で楽しめるキャンプ用品とか、そういうもの。

なくても死にはしないもの。

なくても死にはしないものってたくさんある*2。そして、世の中では、なくても死にはしないものを売ろうとしている。そうして私は様々な「なくても死にはしないんだけど、あったらそりゃあ生活が豊かに、便利に、楽しくエキサイティングに、ますます輝きだすんだろうなあ」と思う広告に触れることになる。

COVID-19流行下における「なくても死にはしないもの」について

一応この話にも触れておきたい。今年は「不要不急を自粛せよ」と国から(あるいは他の自治体や何らかの団体たちから)言われてきた。

実際に不要不急を断つと、断つ前と比べて調子は悪くなったと思う。「調子が悪いな」なんて思わないように、たぶん無意識のうちにしていたみたいで、自覚することは多くなかったけれど。

音楽や、観劇や、旅行や、友人との会食や、そういうことが、心を元気にしてくれていた。そういう「水やり」がなくなると、心は萎れていく。それはまあまあ予測できたから、ちょっと先の予定を立てるとか、友人と通話するとか、工夫はしていたつもりだ*3。やはり何らかの対策は必要だったなと思う。私が取った方策たちが十分だったのかは、また別途振り返る必要があるだろう。

そういうわけで、「なくても死にはしないもの」は、実際になくなると、割とつらい、というのがわかった年だったんじゃないかなと思う。*4

それはそれで忘れちゃいけないことだ。

「なくても死にはしないもの」がないと、健やかに生きていられない

いくつかは、「なくても死なないんだけど、あるといいんだよね」という自分の楽しみを持っておくことが必要だと思う。自分はけっこう簡単に心がへこむし、今ちょっと元気が欲しいなあと思うこともある。そういう時に、「これがあれば大丈夫」ってものがあると、生きていくのがより快適になる。たとえば、流すとスッと立ち上がれる一曲とか、見ると一日に必要な成分が全部摂れる円盤とか、読むと心が落ち着く本とか。ドリップタイプのコーヒーを淹れるとか、筋トレするとかでも。声に出して「イェーイ」って言いながらスマホをピンとタップするとかでも。

いくつか、というのは、COVID-19流行みたいな危機の下ではある種のコンテンツ・サービスは享受できなくなる場合があるからだ。そして、危機的状況のもとでは、メンタルケアの必要性はむしろ高まる。

自分の心を慰め、張りを持たせ、少しでも健やかに日々を過ごせるためには、複数種類の楽しみがあるといいな、と思う。*5

「なくても死にはしないもの」を、選ぶ

「なくても死にはしない、何らかの素敵なもの・こと」は、世に溢れている。そこから、自分に合ったものを*6見つけて試して、うまくいったらもっと突き詰めてみる(または突き詰めはしないで好きでいる)ということになるだろう。

でも、昨日も書いたみたいに、自分が抱えられる「好きなこと」には限りがある。割とシビアに、ある。昨日は話題に出なかったけれど、金銭的な上限もある。これは何かを始めるのにまず大きなハードルだ。

上に貼ったnoteにも書いたけど、世は資本主義なので、広告主たちは私に多額のお金を遣わせたい。だから素敵だけどお財布に合わないものもたくさん目に入る。

そういうの、しんどいこともある。が、買えないものは仕方ないので、そのような喜ばしいものが存在する世界に生きられてよかったな~~と思って終わりにする。*7 私に買えないものを勝手に見せてくるほうが悪いのであって、私は悪くない。

たまたま手元にあるもの

どうしたら私にとって最高のコンテンツに出会えるんだろう、と思う。だけど、こんなに選択肢があって、全部は調べられない。「最高の意思決定」はそもそもできない。

だから、手元にあるものをほどほどに好きになるのが、いちばん幸せかもしれない。

 5月にこういう記事を書いていた。

note.com

たまたま近くにあったものでなんとかやっていき、たまたま近くにあったものをなんとなく好きになる。そういうやり方について。

愛すべきものの意思決定

今私はいくつかの好きなもの・ことがあって、あんまり退屈していないし、次はこんな取り組みがしたいなという展望もある。

でもいつか、「新しくこれがやりたい」と思う時が来るだろう。

そうしたら、昨日の記事みたいに、時間はあるか、体力は足りるか、集中力は十分か、情緒のキャパは大丈夫か、そしてお金は足りそうか、と、様々な面から検討することになるだろう。*8

その検討の参考に、自分の価値観を知っておくのはいいことではないかなと思った。自分はどんなことを楽しいと思うのかとか、そのためにはどのくらい時間を割いてもいいかなとか。あるいは、それまで好きだったことに費やせるリソースが減るかもしれないけど、それでいいのかなとか。

そういう時間を取るのもいいかもしれない。感情と意思の調和。

正気を失いたいという欲求

話がずれるんだけど、こういうまとめを見た。

togetter.com

このまとめでは、年を重ねると何かに熱狂することが(正気を失うことが)難しくなってくる、という話をしている。

「正気を失いたい」という気持ちについて考えた*9。それ、私にもある。とてもある。

「正気を失いたい」って欲求は、たとえばミュージカル刀剣乱舞を見に行くと正気を失って最高になるんですが、そういう体験を経ると、至極当然なものに思える。正気を失いたい、という欲求が。正気を失うのは最高なので。

でもふと思ったんだけど、こんなに正気を失いたいなんて、普段の暮らしの中で「正気でいること」を求められすぎなんじゃない? 私、すごいがんばってるな!?*10 そういうことではないですか?

人生をなんとかやっていくために、エンターテインメントが必要だという話を今日のアドベントカレンダーではしてきたと思うんだけど、人生がしんどいと感じるくらいやっていると「正気を失う」をエンターテインメントに求めるようになるのかな~と思いました。*11

 

もうこんな時間だ!! 何の話したんだろうね、今日。自分に合ったコンテンツでなんとか人生をやっていこうね。

明日は何の話をするか決めていません!! 弔事の話とかするか……。

*1:昨日は『明日は何の話をしようかな、手元にあるものとの出会いの話とかかな。』と書きましたが、そうはなりませんでした。自由だね。

*2:ないと死ぬものは、それこそたかだか有限のリストに収まるだろう。個別に求められるいくつかのものを足してもなお。

*3:この記事とか:

心をもちもちと揉み、MPの上限を上げる|u_u_c|note

*4:文劇3とかもそういう話だったように思う(ここにネタバレのある感想を書いた:

舞台文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱(カノン)|u_u_c|note

*5:その取り組みは割と「生存」に直結することだと思う。楽しみがなくてメンタルが磨り減ると身体や社会的な不調も引き起こされる。

*6:自分の好みや生活スタイルや金銭的な身の丈に合ったという意味で。

*7:お金を払えば手に入るかもしれない、スマホゲームの綺麗な絵のカードとかを想定している。

*8:しかし、往々にして、勢いに任せて始めてしまうんだよな。どうしても始めたいとき……。

*9:スレタイ借りるみたいな感じですが……。

*10:業務でも、暮らしでも!

*11:関係ないけど、好きなスマホゲームに実装されるストーリーが(面白いし好きなんだけど、客観的に見たら)過激(ではないかと疑われる内容)になるに従い、「このままでは私は話の中で人が死なないと満足できなくなるのではないか」と割とまじめに危惧したことがあった。その後、実在の弔事に胸を撃ち抜かれて地下51階に落ち首の骨を折って出られなくなったので、なんつーか、因果であった。