単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

愛される場所で生き延びる

これは2019年アドベントカレンダー「愛の観察ツアー(徒歩)」第8日目の記事です。

もう8日目なの⁉︎
早いな、と感じます。いつもお付き合いありがとうございます!

行動と愛

先日の記事で、「自分としては愛しているつもりはないけれど、行動に愛があると他者から見なされる場合のこと」を書きました。

愛があるから取る行動というものがある、と私は信じています。同時に、その行動は愛がなくてもできる場合がある、と思っている。*1
それはたとえば、愛がなくてもポカリを買ってきてあげられるけれど、愛があるからポカリを買ってきてあげることもある、ということ。愛があるかどうかは、「ポカリを買ってきたということ」だけでは判定できず、私が自分の気持ちをどう捉えているかのみによる、と思っていた。
けれど、ポカリを買ってきたという理由で、他人から「愛がある」と判定される場合があるのだ。
これは、「行動したからには、心に愛があるのだろう」と見なされたとは限らないと思う。「その行動は愛だ」という、行動と愛の紐付けがあるためではないかと思った。*2

特定の行動に、愛が紐づけられている場合があるらしい、と、昨日の記事を書いていて気が付いたわけです。*3
これは結構面白いことだと思う。というのは、ある状況で取られる特定の行動に対して、「愛がある(自分は愛されている)」と認識する仕組みがある(人がいる)、と考えられたから。
「愛されている*4」と信じることは、その場にいることへの安心に繋がると思う。受け入れてもらえて、気を配られ、親切にしてもらえる場所は大切にするのがよいだろう。生存にとって。あるいは快適な日常にとって。

君が私を愛していると信じること

あなたが私をどう思っているかに関わらず、あなたは私を愛しているみたいだと感じられる(あるいは、信じられる)ことは、人間が生き延びるにあたって良い方向に働いたのではないかな、なんて夢想する。私を愛しているらしい人には警戒を解けるだろう。そして好意を持ったり、好意を行動で返したりするだろう。それが「良くしてもらったからお返しをしなければならない」って義務感なのか、「良くしてくれるので感謝を表したい」って気持ちなのか*5、「良くすることで私を好きになってほしい」って下心なのかは別として。
安心して好意を与え合える場所は貴重だ。そういうところで生きていたいと思う。


「適量の愛」について書こうと思っていたら、別の話題になった。明日はどうしようかな。「これは愛じゃん……」と私が思った話か、容赦ない愛の帰結の話になるかなーと思います。

*1:「愛がなければできず、愛があればできること」がこの世にあるのかどうかは、今私にはわからないです。

*2:なぜそう思ったのかは定かでない。

*3:例えば私は、ゲーム刀剣乱舞に出てくるにっかり青江というキャラクターが、強くなるための旅に出て帰ってきた後、「なんでそんなことになっちゃったの!?」と混乱し、受け入れたいと願って分かる限りのことを調べて30枚のスライドにしたことがある(#刀剣乱舞 うちのにっかり青江はなぜ修行に行き、何を極めて帰ってきたのか? - 蔦子のイラスト - pixiv)。これについて、「愛がある」とよくコメントをいただきます(ありがとうございます!)。私は自覚的ににっかり青江のことが好きで、私なりに愛しているなと思っているので、他者による「愛がある」という評価を「そうなんですよ〜」と受け入れることができる。しかし、同じゲームに出てくる石切丸というキャラクターについては、私は石切丸を強くなる旅に出すまでにひどく葛藤し、刀本体が奉納されている神社に参拝したり石切丸に関する本を一冊書いたりした(#1 【通販中】君が元気でありますように【サンプル】 | 君が元気でありますように - 蔦子の小説シリー - pixiv)ことについて、「愛だね」と言われると「愛ではないが!?」と思う。これは私が自覚的には石切丸のことを好きではなく、愛してもいないからです。でも、嫌いなわけではない! 断じて嫌いなわけではない! たぶん……。この感情については、追ってこのアドベントカレンダーでも取り上げられたらいいなと思います。

*4:ここでいう「愛されている」は、「特別に大事にされている」「手間をかけてもらえる」というような意味。

*5:これは愛っぽいですね。