これは2019年アドベントカレンダー「愛の観察ツアー(徒歩)」第7日目の記事です。
昨日までは、パーソナルカラー診断と骨格診断を受けて、新しい服やコスメを買い、装うことで自らが変容する魔法の体験と、そんな自分を愛することについて書きました。
ところで、今日はとても寒いですね。
愛、キラキラ〜ポカポカ〜みたいな記事を書けそうにありません。*1
もっと淡々としたトピックにしようと思います。できれば。
『愛だね』と言われる時
知人友人から、『それは愛だね』『愛が深いね』『愛を感じるね』などと声をかけられる時、ありませんか?(あるのか?)
ないかな……?
なくてもいいんですが、私はあります。*2
人に『愛だ』と指摘される時、私は「うん、愛かもね〜」と思う時と、「愛なの……? これが……?」と思う時があります。
人と人は分かり合えないね。そういう話ではなくて。
わからない愛
人は私の行為を見て「愛だ」と言う。それは「そのような行動をするということは、心に愛があるはずだ」ってこと……だと思ってたけど、違うかもしれないな。
「そのような行動」が「愛そのもの」って意味かな。
私は自分の気持ちに愛があるかないかを見ている。
だから、私は「愛じゃないよ」って言うけど、誰かが同じことをしていたら「愛だ」って言うかもしれない。
心がどう思っていても、その振る舞いは愛だな、って。
愛と親切
この間、具合が悪い人にポカリを買ったら、『愛だ』って言われた。
私にとっては、具合の悪い人にポカリを買うのは、愛というほどのことでもないのだけれど……。
気がついたのでそうした、とか、人として外すべきでないこと、くらいの感じ。
その人は具合が悪かったので、少しの親切にとても感動してくれたのかもしれない。周りが誰もポカリを買ってくれなかったとか、自分だったらとてもポカリを買わないよとか、何か私の知らない理由があるのかも。
愛があるつもりがなくても、愛があるように思われる。人によって、「それは愛」と判定する振る舞いがあって、その判定は人それぞれ違う。
そして、愛の振る舞いをすることと、実際にそれを愛していると自覚しているかどうかはまた別みたい。
これは面白いことだなーと思う。
自分は何を愛していると自覚しているのか、周りの人は私が何を愛していると思っているのか、そのズレを追いかけるのも楽しそうです。
寒すぎるので、この辺で。あなたも暖かくしてお休みください。