単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ:黄道光抄 : 歌集

蓑部哲三 著 蓑部厳夫, 蓑部樹生 編(2011)

黄道光抄 : 歌集 | NDLサーチ | 国立国会図書館

 

好きな歌がたくさんある。30弱を引く。

大隅のかすむ陸(くが)よりふくらみてみなみの海はいたくあかるき(p11)

宮崎から鹿児島方面を見ているのだろうか。3句以降にひらがなが多く、南国の明るさのシンプルで原始的な力を感じる。

井戸端のぬれし三和土(たたき)にぶちまけし貝にまじれる鰈(かれひ)眼をあく(p13)

取ってきた貝を三和土に出す習いなのか、うっかり籠か何かを落としたのかわからない。「ぶちまけし」はなんとなく後者の感覚があるがどうだろうか。鰈が眼を開いたのを作者は目撃したのだと想像する。鰈はまだ生きている。貝は見た感じ「生きている」と思う動きを、特に陸上では見せないだろうけれど、魚はそうではない。これから食べるか売るかするのだろう鰈の命を見た作者、内容は観察のみの歌で作者の感情は書かれていないのだけれど、印象に残る。

庭のべにひらき切りたる山桜散る花のなきひと時があり p22

もしかすると多くの人が詠んできた情景かもしれない。ただ、「庭」の「山桜」(ソメイヨシノではなく)という点は作者の独自さが高いのではないだろうか。最後が言いさしの形であることが、このあと日をおかずに散り始めたことを予感させると思う。

めざめたる玻璃窓の外に夜明かと見まがふばかり靄ながれゆく p23

何時に起きたのかは書かれていない。しかし、夜明けにはまだ遠い夜中なのだろう。その中にも靄は白く流れていたのだろうか。夜中に目覚めて外がほの白かったらびっくりすると思う。それを淡々と歌われたのかなと想像する。

ひと束の穂北半紙を入れおきし机によればにほふすがしさ p25

穂北は紙漉きの里だったらしい。今は職人はいないようだが(https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/honbu/hisho/jaja/04_washi.html)。
新しい紙はいいにおいがする。机の引き出しを開ける前から、机の周りに清々しい香りがしているというのはうきうきする感じだ。枕草子を思い出す。

うつり来し庭の石臼に水張りぬ岩雀らが来り浴むべく p29

引っ越しをされたところだろうか。まだ荷物を解き切る前のような気がする。周りの生物に気をかけるやさしいお人柄を感じる。庭に臼があるってなんだろうと思いつつ。

ひそかなる願のありて春を待つ我が幸を人知らざらむ p31

願いや幸いの具体が示されることはない。具体的に書けという向きもあろうが、この歌が好きだと思う。春を待つ気持ちは共通している。誰にも言わない願い、誰にも言わない幸せをきちんと胸の中に持っていることは豊かなことだと思う。

ふるさとより来ましし父が濡縁の竹青々と敷き換へくれぬ p36

この歌集では両親に対してかなり丁重な尊敬語が使われているように思う。高齢の方の歌でもたまにそういう表現を見るので、時代なのかもしれない。「来ましし」って自分の親には使わないだろうなあ、祖父母にも使わないだろうなあ。先生には使うかもしれない。
この歌は「青々と」がいいなと思う。さっぱりしたことだろう。しかし濡縁の竹ってなんだろう。濡縁が木じゃなくて竹製なんだろうか。

山桜ふふむ鳴川の峡に来て桑をくくりし藁とき放つ p45

桜があると嬉しくなってしまうし、水辺も好きだから目に止まったのだろうか。桑をくくっていた藁をとき放つのがどういう状況なのかはよくわからない。……と思って読み返したところ、「ふふむ」と「くくりし~とき放つ」がいいのかも、となった。山桜がひらく予感が、今桑がとき放たれた様子から誘導されるのだ。

炭を焼くけむりは白くやはらかく敵機来し日は遠くなりたり p48

戦争経験世代。「けむり」がひらかれているのがやわらかさをより感じさせ、下句の「敵機来」という硬い漢字の並びとうまく対照されていると思う。

うみたてのけさの卵も幼らの熱き麦飯にかけてやりたり p68

自分の家で飼っている鶏かなにかの卵を、まだ幼いこどものごはんにかけてやったという歌。「も」なので、ふだんからこどもには色々とごはんのおともを分けてやっているのだろうかと想像する。「熱き」がまたいい。お腹が空く。

思ひきり土にまみれて働かば吾のけながき風邪も癒えむか p72

歌集を読んでいると本当によく働く人だなと思う。あるいは働くことと生きることの距離は今よりずっと近い時代だったのかもしれない。長い風邪に苛立っているような雰囲気を感じて少し微笑ましい。家族からしたら働かないで休んでいてほしいかもしれないが。

立ち枯るる朴を鋸引きをへたれば吾肩あてて押し倒したり p82

動詞が多いけれど、スムーズに読める歌。「終へ」「当てて」などが適宜ひらかれている工夫もある。木こりというのか、自分は一生やらないだろう動きでも、なんとなく、木の感触や重みを肩のあたりに想像する。

櫨の木を鋸引きをへて割りをれば黃なる芯より素直に割れつ p84

これも木こり(?)の歌。薪割りはキャンプでちょっとやったことがある。「素直に」が面白い。針葉樹の素直な割れっぷりは「素直に」と確かに言いたくなる。ハゼは針葉樹ではなさそう? 「黄なる芯」も具体的なところがいいなと思う。

コールタールに漬けし落花生吾は蒔くかうでもしなければ野鼠が食ふ p90

知らない習慣だ。コールタールに漬けられても落花生は発芽するということなのだろうか。作者はこれまでに落花生を食われたことがあるのだろうなと想像する。

川原の畑にみのりし胡麻を刈るすでにこぼるる実を惜しみつつ p93

胡麻の収穫ってどんなんだ? とYoutubeで見てみました。胡麻ってこうサヤの中にあるのか~! ホウセンカの種みたいに弾けてしまうのね。惜しいと思う気持ちがより理解できるようになった。もったいないね。

ゴマの栽培 種まきから収穫、脱穀して焙煎まで。 - YouTube

わが井戸の石の間に冬籠る守宮(やもり)はつひに鳴かずなりたり p93

守宮って鳴くんだ……知りませんでした。作者はかなりの頻度で守宮が鳴くのを聞いていて、それが聞こえなくなったなあ、というのを歌にされている。小さな生き物を見つめる目。あと、守宮が冬眠してるのも実はよくしらなかったんだなあ。守宮って何年も生きるらしいね。

わが妻が逆さに植ゑて芽ぶかざる生姜を今日は吾が植ゑ直す p95

生姜を植えるときにはあの生姜をそのまま土に入れるらしい。向きがあるんですね。アボカドの種を植えようと思っているのですが、アボカドの種にも植える時の向きがあるらしい。奥さんが逆さまに植えたということが事前にわかっていたのか、「なかなか芽吹かないから見てみたら逆さだった」ということなのか。前者かなあ。奥さんはあまり畑仕事をされない方だったのだろうか。微笑ましい御夫婦だなと思う。なんとなく、生姜を逆さまに植えたからって怒りそうな人には思えない。作者さんは。

丈ひくく老いたる父は婦人用の自転車に乗りて勤めに出でぬ p102

その後ろ姿を、悲しく哀れに思われたのかもしれない。特にその時代は「婦人用の自転車」に男性が乗ることのハードルが高かったりしたのかな、今よりも。しかし老いてもなお職場があるのは立派なことだなと思っちゃう。

火山灰地の我が畑ながら霜とけてカリフラワーの緑いきおふ p108

火山灰の土地では作物が育ちにくい、という前提がありそうな歌。カリフラワーの緑が濃くなっているのを喜ぶ気持ちが伝わってくると思う。「いきおふ」がひらがななのが、カリフラワーのもこもこっぽくてかわいい感じがある。

秋ののげしの花より集めし蜂蜜のにほひに馴れてパンに塗りをり p109

のげしってなんや、と調べる。ノアザミの花がたんぽぽみたいに黄色いやつ……っぽい。蜂蜜を作れるんですね。最初は香りに馴れなくて食べつけなかったのかもしれませんが、今では当たり前のようにパンに塗るようになった、という歌。昭和32年の歌ですが、その頃からパンに蜂蜜を塗って食べたりしていたんだなあ、とちょっと新鮮。

吾よりも早く桵の芽折りし人を憤りつつ丸山を越ゆ p111

歌集を読む限り、作者が怒っているのは珍しいと思いますが、それがタラの芽を折られていたからというのがちょっとおもしろい。毎年そこで摘んでいたのでしょうか。あるいは、あまりにも広範囲に採られていたとか、なにか特殊な事情があったのか。

山道にいたく後れし妻待てば霧の中よりのぼりて来たる p117

ものすごく間が開いてしまったのでしょうね。いちいち歩幅を合わせないのだな。霧の中からだんだん妻の姿が見えてきたのが印象的だったのだろうと思います。妻視点の歌があったらどんなだろうか。

山の落石はげしき米良(めら)より出で来たる自動車は屋根に金網を張る p122

普段から金網を装備している車なのでしょうね。そんな土地柄があるのかと私も驚きました。作者も驚いて歌にしたのではなかろうか。

火口湖を越えむとしつつ力尽き落ちたる蝉をボートより拾ふ p133

蝉の死体が湖のボートの中に落ちていた。それを、湖を越えようとした蝉だと感じる作者の心がすてきだなと思う。「火口湖」とすることで、単に湖とするよりもスケールが大きくなったように感じより効果的なのではないだろうか。さらに作者は蝉の死体を拾い上げる。それからどうしたのかはわからないが、旅人への敬意を少し感じる。

夕ぐれていよいよにほふ姥百合の花咲く渓を立ち去りがたし p133

夕方、もう帰らねばならない時間。だけれども花の香りが強くなって、ここにとどまりたいと思ってしまう。シンプルな歌だと思う。「立ち去りがたし」にかなり強い感情が出ているのと、「いよいよ」がちょっと強めではあるけど(でもこれは必須だ)、全体にはシンプルに詠み切るのがすごい。もっと過剰にしたくなりそうだから。

朴の芽のひらきゆきたるくれなゐの苞は下行く谷川に落つ p176

2句切れなのかな? それとも芽が苞をひらくものだろうか。作者の歌のしらべで2句切れってあんまりないしやっぱり切れてないのかな。芽ではなく苞に目をやり、その行く末まで見届けている。

こういう俳句もあった。 朴の芽の苞まだ落ちず中尊寺|細見綾子|昭和47年作 - 細見綾子・沢木欣一 俳句アーカイブ

老いてなほやさしきこゑに吾を呼ぶ妻と真昼の茶を飲みあひぬ p214

いい歌だ……。「やさしき」に愛情が出ているし、わざわざ「あひぬ」なのがね、いいですね……。あと、真昼の茶なんですよね。お昼ご飯のあとの一服なんだろうか。夜ではなく昼だというのがまたほのぼのとした感じがあっていいなと思う。