単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ:鳥の見しもの : 歌集 (塔21世紀叢書 ; 第290篇)

吉川宏志 著(本阿弥書店、2016)

鳥の見しもの : 歌集 (塔21世紀叢書 ; 第290篇) | NDLサーチ | 国立国会図書館

吉川さんの歌集を初めて買った。好きな歌を詠む人だ、と思って買う歌集を読むときの気持ちは、ちょっと他にない(好きかなどうかな、と思いながら読む歌集とは異なる)。 以下好きな歌を引く。好き……という気持ちがほとばしってしまってあんまり言語化ができない、できるだけがんばる。14首。

p29 石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨(カセットテープ)

「石段の深きところ」。段が切り替わる、90度の凹みの部分のことだろうかと思って読んだ(丸みのある石を積み上げて作った石段なら、直角とは限らず、もっとランダムにえぐれていることもあるだろう)。すぐに過ぎる雨は石段の平らな面をぽつぽつと濡らすにとどまる。その様子を自分で目にした記憶はないけれど(見たことはあるのかもしれない)、でも、そうなのだろうなと思い浮かべることができる。それがほぼ上句だけで達成されているすさまじい言葉選び。下句は雨を繰り返している。夕山、は夕暮れ時の山のことだろうか。夕暮れ時にさっと降っていった雨、その雨は今はもう降っていないけれど、痕跡がある。

p34 やわらかな仏のころも波打ちてそこには風が彫られていたり(白毫)

「そこには風が彫られていたり」。東大寺二月堂(だと思ったのだけど、戒壇堂の間違いかも)で四天王の像を見たことを思い出した。仏像の衣服の襞は、襞だな、と思って見るばかりだったが、それは風でなびく衣の様子だというのだ。確かにあのやわらかな動きは、ただ身体の動きや重力だけで生まれるものではないのかもしれない。そういう観察眼をもちたい。

p41 襞ふかき白さざんかに触れながらわが手も冬の陽を浴びている(石榴のごとき)

白いさざんかの花も陽を浴びている。真っ白がきっと際立つ。襞がふかいから、花の中にも陰影があるのだろう。それに触れる自分の手も明るく照らされていることに気づく。「触れながら」が、主体が主語という見方と、後ろに出てくる「わが手」が主語という見方ができると思うのだけれど、後者の場合「わが手が~触れながら~浴びている」となって、自分の手を客観視しているかたちになるのがおもしろいと思う。

p43 白菊の咲く路地をゆく傘ふたつ高低変えてすれちがいたり(石榴のごとき)

さっきも言ったのだけれど、シンプルな言い回しで絵が伝わるということが本当に感動的だと思う。「傘ふたつ高低変えてすれちがいたり」ですよ。一人が傘を掲げ、一人が下げた。一人が掲げるだけではなく、向かっていった人は、あ、それでは、という感じで(違うかもしれないが)下げた。その無言の、数秒のやり取りを主体は見ていた。歌にしたいなあ。だけどこんなふうに短い文字数できちんと言える気がしない。傘をもつ人間が出てこないのがいいのかしら。傘だけをカメラが追っている。人間は私が幻視している。

p45 手に置けば手を濡らしたり貝殻のなかに巻かれていた海の水(石榴のごとき)

これはどこかで引かれているのを見た歌である。なんといっても「巻かれていた」がすごいと思う。海の水は「溜まっていた」とかではないだろうか、すぐ思いつくのは。だけどその貝殻は巻き貝で、海の水は回転しながら出てきた。主体の手に。貝殻を透視して、くるくると径を大きくしながら速度を増しながら降りてきた水を感取して、巻かれていた、としたのだろうなあと想像する。水だけれど、まるで水ではない固体の形で保管されていたようにも思える。布とかみたいに。 そして、巻かれていた水は、すこしぬるかったのかなとも想像する。なんとなく。

p74 朝光(あさかげ)は低きところを照らしおり伐られし竹に溜まりいる水(青蚊帳)

伐られた竹の筒の中に、水が溜まっている。まだ高く昇る前の太陽が、竹の上の方の葉ではなく、途中で伐られた竹をちょうどよく照らしている。その中に水が入っているのがよく見える。水は光っているのかもしれないし、あるいは竹筒の深さによっては光ってはいないのかもしれない。でもちょっとは光って見えるのではないかなあと思う。

p75 樹下に来て鴉は蝉をつつきおり呑みこみしとき鳴く声が消ゆ(青蚊帳)

ショッキングな歌だ。鴉がまだ鳴いている蝉を食べてしまった。……と読んだのだけれど、どうなのだろう、周りの蝉しぐれがドラマチックに全部一瞬止んだのだろうか。やはりその一匹の蝉のことではないかなと思う。鴉は蝉の震えをいつまで感じていたのだろう。 淡々と歌われているところがいいのだろうなあと思う。事実だけが書いてある。

p79 あさがおは青くひらけりその中に入れぬ水がころがりて落つ(鮎のひれ)

私は水の歌が好きですね。雨と水の歌、そして光の歌、風の歌。今「最後の一文」を集計していて、光や風や雨のことを見ているとそういう感性になっちゃうのか、そもそもそういうモチーフが好きだから選ぶ歌もそれに偏るのか……たぶんそっちが強い理由だろうなあ。 朝顔が咲いている。あさがお、もひらけり、もひらいてあって、やわらかく、寛大な印象を受ける。それでも水はその中に入れなかった。「入れぬ水が」なので、もしかしたら入っている水もあるのかもしれない。ないのかもしれない。いずれにしても主体は、水が転がって落ちて、あさがおの中に入れなかったのをずっと見ていた。朝顔の歌ではなく水の歌だ。

p80 夕立のまえぶれの風吹ききたりアメンボは横に流されてゆく(鮎のひれ)

夕立のまえぶれの風、肌で覚えがある。その時、主体は水辺にいた。アメンボが夕立のまえぶれの風に流されていくのを見た。そんな強風というわけではなかろうけれど、アメンボはとどまっていられない。夕立の雨風の中でアメンボはどこに行ってしまうのだろうか。

p101 きりきりと吊り上げらるる鋼材の或る高さより朝の陽を浴ぶ(鳥の見しもの)

光の歌。建材がクレーンで持ち上げられている様子を想像した。街なかだろうか。他のビルか何かで、下の方は日陰になっている。けれどもある高さを超えると、陰のゾーンを脱する。「或る高さより」が効いているのかなと思って読んだ。具体的な高さはわからない。ただ、光と陰の切り替わるところにフォーカスされている。目に浮かぶ。「きりきりと」もいいと思う。

p127 花びらは土に還りて黒ぐろと千年前の花を踏みたり(谷の花)

これまで引いてきたのとは少し違う構造の歌かと思う。私は3句で区切って読んだ。花びらは土に還って、黒ぐろとした土になった、というところで意味が切れると思っている。「黒ぐろと」が「踏みたり」にかかることってあるのだろうか? 重厚な感じや畏れは出る、だろうか。 今踏んだ土は千年前の(平安時代の)花だ、と歌われている。実際にどうなのかはともかく(幻想かもしれないことを断定して言い切れるのが歌の強さだと、ある歌会で聞いた)、そう思わせるだけの場の力というものがあるのだろうと、妙に納得をしてしまう。作者は吉野山にいることが、連作の他の歌からわかる。

p145 書くことは思い出すこと 秋雲の透けゆくなかに死者も来ている(ドワーフ

特定の二人を思い出しながら読んだ。それはともかく、「死者も」の「も」が気になった。死者も、ということは、死者でないものも来ているということかと思うのだが。……ここで辞書を引いたところ、これは「ことさらにとりたてて意味を強める」(明鏡国語辞典第3版)の「も」かなあ。秋雲の透けゆくなかに、死者以外の何かが来ているとはかなり読みづらい。死者さえも・死者といえども、来ている、ということかな。その方が通りますね。「死者が来ている」と比べてみると、……ううむ、上句で「書く」ことで「思い出」しているのが生者も含まれるなら、書きながら、生者の顔を思い浮かべる・死者の顔を思い浮かべる・すると秋の空には実際に死者がやってくる、という呼応のことなのかしら。であっても、秋の空に生者は来ないだろうから、やはり強意の「も」なのだろう。

p160 透明を描(か)くとは何も描かぬこと 蜻蛉は羽を水辺にひらく(櫻谷/二〇二〇年の綿花)

日本画を鑑賞しているところと思われる一首。だから、この蜻蛉は実際にいる虫のことではなくて、絵の中に描かれた蜻蛉のことだと解釈した。蜻蛉が羽を開いている絵だ、と思って、羽をよく見る。するとそこにはほとんど何も描かれていない。蜻蛉の羽は透明だから、何も描かずにこれで蜻蛉の羽だ、と見る人にはちゃんとわかるのだ。その不思議を、上句の気づきと、下句の見たものをそのまま淡々と詠む形で一首にまとめられている。 仏の衣に風が彫られている、という感性と似たものを感じる。

p172 路に差す冬の光にこわばりがなくなるころを菫咲きおり(白き時間)

冬の光はこわばっているのかと、この歌で思った。わかる気がする。そして春になれば、春に近くなれば、そのこわばりはほどけていくのだ。今ちょうど春になりつつある季節、路の光にもっと目を凝らしたいと思う。確か近所の交差点に、菫が咲くのだ。

私は今回も、作者の歌から、デモや東日本大震災の歌を引くことができなかった。私の中で消化できていないテーマの歌もきちんと読めるようになりたいと思う。