単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ:言霊の風

伊藤一彦 著(2022)

言霊の風 : 伊藤一彦歌集 (角川文化振興財団): 2022|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

 

牧水短歌甲子園の会場で買ったもの。以下に好きな歌とコメント。

雑感:好きな短歌を探す時、最初は「自分の好みの歌」が目にとまる。そのうち、その作者の歌を何度も読んでいるうちに、「作者らしくてよいと思う歌」というカテゴリの歌が目にとまるようになる。これは面白い現象だと思う。

 

 

伊藤先生の歌、色っぽい歌……というのか、官能的な歌がよくある気がする。あと、九州・宮崎の者であるという自負の歌。

p11 日本列島くちなはならば九州は尾(を)つぽなるらむ 淋漓たれ尾は

りんり、が初めて見た言葉で、意味はわからなかったけれども、「〜たれ尾は」で九州への愛情を充分に感じ取れる。言葉の意味を調べると「水の流れる様/勢いがある、元気いっぱいである様子」という感じらしい。蛇の尾は元気いっぱいであるべし。そうなのか。考えたことなかったけど、日本全体が活気付く様子を思い描く。元気になり、笑顔が溢れる。力のある歌だと思う。

 

p15 イザナミが先に声かけて何ゆゑによくなかりしか 水蛭子(ひるこ)よ怒れ

読んで、勝手に先生の声で再生された歌。『水蛭子はね、怒ってもいいじゃないですか』。「よくなかりしか」っていう言葉のチョイスも玄妙。会話を切り取って歌にしたような印象がある(違うだろうけれども)。伊藤先生の、艶っぽさを感じる歌のひとつ。

 

p19 照り光る大き月ありき人生はこれにてよしと母描きし円(まる)

詞書に「母の亡くなつた深夜の月を忘れない。」とある。お母様の懐の大きさ、お人柄の偲ばれる歌だと思う。挽歌というのはいずれも深い思いをもって詠まれるものだと思うが、このように作者の感慨を直接は描かない歌も好ましいなと思う。月と母のことしか出てこないけれど、作者の心の満足のようなもの——悲しさや喪失感はあるのかもしれないが、それでも不思議と足りているような感じは受け取れる。

 

p25 雀子を眺め語らふ媼らは何の「殺し」か「殺し」が聞こゆ

おばあさんたち、新聞かニュースかで、残虐な事件とかに詳しいイメージが勝手にある。雀の子を眺めながら、そういうニュースの話になったんだろうか。それとも……?

この下句がうまいなあと思う。結句で「聞こゆ」なのが、作者の受けた驚きを余すところなく伝えているのではなかろうか。結句がいちばん大事と先生自身もよくおっしゃっている。

今調べて知りましたが、「雀子」は春の季語なんですね。

 

p28 一本が倒れてゆかば抱(だ)きあへるに天に真向かひおのがじし立つ

並んで生えている大きな木についての歌。前の歌で、牧水と小枝子に見なされている。かといって倒れれば触れられる距離に生えている木について「抱きあふ」という概念を持ち出すのはさすが作者と思う。あと「おのがじし」をよく見るが初めて調べた、これは「各自思い思いに」といった意味らしい。

 

p59 勢ひのある白雲よ一色のからだすみずみまでうごくなり

ものを描写するにあたって、色や音(声)や光といった要素をぽんと入れ込んで、読み手のイメージを深く豊かにするのが上手いと、何度も思っている。ここでは白雲について、あえて再び「一色のからだ」と示したあたりとか。

そしてこの歌は下句の「すみずみ/まで」が句跨りになっていて、雲の動きが隅々にまでわたりダイナミックであることをより感じさせている。「うごく」がひらいていることも、雲の人間でなさ(物さ?)、その自由な振る舞いの印象を強めるように思う。作者、人間でないものの人間でなさに厳しいというか、厳密だなあと思う。かといって親愛を失わない。畏れと親密さの同居。

 

p64 天のこゑ聴く耳もたずくやしきにそを伝へくるる鳥がいま鳴く

天に声がある。それを聞きたいと思う。聞けないことが悔しい。……それだけで情報としてはてんこ盛りだと思うが、さらに鳥が鳴く。鳥は天の声を伝えてくれるものだという。さて、鳥の声の意味はわかるのだろうか? 作者は「これで私にも天の声が聞けた」と満足するのだろうか?(するかもしれないし、しないかもしれない)

 

p75 蝋梅の香(か)を盗むごとかぎにけりいや盗みたり香りといへど

下句……! 香りといっても……、持ち去ったことが明確にわかる、花びらや何かとは違うけれど、嗅いだ自分は香りを盗んだのだと言う。花が纏う香りは、香りを含めて花は全きものであって、嗅ぎとったぶんが減ってしまった、というような感覚だろうか。花に近寄って鼻をくんとした仕草に何らかの後ろめたさがあったのかもしれない。花は嫌だと思っても、避けたり声をあげたりしてはくれない。

 

p92 新しく書斎の南に植ゑし花梨われが見るよりわれが見らるる

花梨の木に見られている、という感覚。新しくやってきた場所にいる人間を観察している。この発想自体も面白いし、「われ」と「花梨」がフラットというか、行動を交換可能であるというか、互いに見たり見られたりするものだと自然に捉えている態度が新鮮に思える。

 

p95 午後の窓に三度も四度もぶつかれる蝉の希望を叶へやりたし

蝉がぶつかってくる、というだけでも歌になりそうだが、作者はさらに「叶へやりたし」という。蝉の願いとはなんだろうか。室内に入りたい、ということだろうか。それとも、これは穿った読み方になるけれども、「もう命を終えたい」という願いなのだろうか。

二句、みたびもよたびも、であるか、さんどもよんども、であるか、ふりがなはない。後者が文字数は7になるが、前者の響きもなんとなく優しくて好きだと思う。でも「び」より「ど」の方が、ガラスにぶつかってくる蝉の勢いっぽいかなあ。

結句が「叶へやりたし」。「叶へてやりたし」としてもいい気がするのだが、作者は結句の七音は基本的に常に守っている感じがする。

 

p115 妻のものわれが探してわれのもの妻が探してよく見つけあふ

奥方について詠まれた歌がけっこう好き。この歌は、よく見つけあう、という話し言葉のような軽さのある結句で、もちろん探し出せないこともあるけれどもよく見つけ合う、という生活のリアルな感じが出ているのではないかなと思う。自分より相手の方が自分自身の行動パターンを知っている、というのは何年か一緒に暮らしていると起こってくることで、私も経験があり、そういう意味でも良さを感じた。私はもっぱら、見つけてもらう側なのだが。

 

p145 うづたかき不要不急の哲学書 処分するのも不要不急なり

新型コロナウィルスが流行り始めた後の時期の歌。不要不急という言い回しを苦々しく思う向きはこの頃多かったと思う。こんなふうに軽妙に、自分の大事なものをさらりと守る歌は格好いいと思う。

 

p207 何の鍵か分からずなりしゆゑ捨てず多分一生抽出しにあり

よくわかる状況の歌。私にもこうやって、ずっとポーチに入っている鍵がある。そしてさらにこの歌は、歌われている「鍵」を超えて、「なんだかわからなくなってしまったがために、結果的に何よりも大切にされる」という状況の歌なのだろうなあとも思う。不思議だ。たとえば我が身に置き換えて、誰かに忘れられたほうが大事にされるのかもしれないというのは、背筋のぞわぞわするようなちょっと寒々しくさびしい発想ではあるけれども、心のどこかでは、それもまた真実かもしれないと思わされる。

 

p209 雨の香にかすかこもれる花の香をよろこび告ぐる妻をよろこぶ

これも奥方の歌。作者の愛情を感じる。

なんというか、個人的に、「趣味が同じかどうか」よりも、「相手の趣味を尊重できるか」の方が、関係が良好に長続きするのではないかと思っているのだが、その一つのたどり着く先の姿のように思う。作者も花は好きだろうけれど(他の歌からそう思う)、もしかするとこれは奥様が手ずから育てていらっしゃる庭の花の話かもしれなくて、そうすると花に対する思い入れは作者より奥様の方が深いかもしれない。だから作者は、花の香が雨の香に含まれていることを、奥様と全く同様には喜ばないかもしれないのだけれど、そんな奥様の様子がうれしいというのは、たいへん穏やかで素敵な景色だと思う。

 

p227 勝者より敗者の弁を読みたしと思へど弁すら載らざる敗者

これはp78-79の「鹿と列車衝突せし記事 乗客に怪我なしとあり鹿は記載なし」「線路上に轢かれ即死と思へどもせめて一行の文のあるべし」に通じる感覚だなあと思う。負けたもの、死んだもの、一般的には顧みられないものに対して、向ける視線があること。それは作者がかつてカウンセラーをされていたことにも通じるのかもしれないし、あるいはそもそも持っている魂の特性のようなものなのかもしれないが、こういう、新しい視点をくれる歌のことは好きだ。

 

p236 黙食の懇親といふ不思議なる会にわれらは箸うごかせり

「不思議なる会」に込められている皮肉を感じる。このような表現でも、読者にはニュアンスが伝わるのだなあと勉強になる。「箸うごかせり」、食事を楽しむといった風ですらない。懇親かあ、これじゃ懇親ってできないよなあ、と各々が思いながら、作業のように食事をしているのかなと思わせる。黙って食べる食事は味気ないよという作者の嘆きだろうか。

 

p256 返すもの何も持たぬに寒星の光りやまざる 無償の光

こういう、自然がもたらす無償の恵みの歌も何首か見た。控えていなかったのだが……。これは字空けで強調されている「無償」が特に印象的になっている。寒空に強く光る星、その光を受け取るのだが、返すものがない。さて、「光を受けている」ということに対して、とても価値(あまりそぐわない単語を出してしまったが、「良さ」とか、「ありがたさ」とか?)を感じている作者の様子が感じられる。星に何も返せないことは孤独であったり無力であったりするけれども、星は別に人間のために光っているわけでもないのだ。

 

p263 堤防に続く黄の花の導火線 胸に火を抱く者近づくな

うまく言えないのだけれど、「みなしの歌」とでも言えばいいのだろうか? 作者は、みなしをした上で何かを言う、という歌がうまいなあと思っている(これも控えていなかった……)。みなしだけで一首にもできると思うのだけれど、さらに自分の見解や価値観を載せていくのはやはり歌がうまい人がよくされていらっしゃるのだよなあ。すごいなあ。

黄色い花がまっすぐに咲いているのだろうか。あるいは菜の花だったりするのだろうか? それだと「線」ではなくて「面」になってしまうかな?

もし胸に火を抱く者が近づいたら、黄色い花は燃えて、一瞬でかなたまで導火線を燃やしてしまう。その先にあるのは堤防である。本来その向こうには川があるので、きっと火は消えてしまうのではとも思う。のだが、「近づくな」であるので、その導火線は堤防を爆発させてしまい、川を溢れさせてしまうのかもしれない。

彩りの美しさと、下句の展開がとても好きな歌。