岡ノ谷 一夫 著
noteに私が書いた記事について、音江さんが言及してくださった。そこで紹介されていた本。
私の記事▼
音江さんの記事▼
私はもともと「自分はどうして自分なのか」「自分はどこまで自分なのか」みたいなことに関心があった。
私が高校生だった頃、今は亡き家族が自宅でODしちゃって、生還はしたけどその後からおかしくなってしまった。心ここにあらずで、話しかけてもほとんどしゃべらず、寝てばかりいて、動作も緩慢というか力が入らない感じで立つのも歩くのも難しくて、家族二人がかりで抱えてトイレに連れて行かなきゃならず、それでも床を汚してしまったりした。*1 結局亡くなるまで、その「生きているのに死んでいる感じ」は治らなかった。
何とか食卓に連れてこられたけど、俯いたままご飯に手をつけないで、話しかけられても返事のできない、幽鬼みたいな様子を見ていて、私は「ああ、あの、薬をたくさん飲んでしまった時に、この人は死んでしまった」と思ったのだった。
生きているけど、死んでいる。
それで、「その人がその人であること」とは何なのかが気になるようになった。
でも、自ら色々調べてみよう! とはならず、学問的にもドンピシャのところに進んだわけでなく。*2*3*4
でもずっと気になってはいた。「その人がその人であるとは、どういうことなのか」。
だから、言語、心、コミュニケーションについて、一般向けに平易に書かれた本を読めて嬉しかった。
面白かったこと。
- 高校生が賢い。川越高校と川越女子って当時スーパーサイエンススクール指定だったのかな。高校1年や2年の頃にこんな講義を聞いて、よその学校の人と交流を持てて、素敵な企画だなと思う。
- 鳴き声が歌になり、歌の部分が特定の意味を持つようになって、言葉になった、という流れの話。伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』だったと思うんだけど、「歌が歌えるやつは語学も得意なんだ、どっちも聞いて真似するんだから」みたいなくだりが出てきたのを思い出した。あれは本当に、どっちも同じことだったのかもしれない。身内に一発モノマネが得意な人がいるんだけど、その人も愛と意地で他言語を一つマスターしていた。観察して真似ること。
- まず他者に心があると仮定してから、自分の心を発見する話。この説を初めて知った。
- 遠隔コミュニケーションの話。テキストだけでうまくコミュニケーションするのはやはり難しい。情報が足りないと、解釈のしようが複数発生する。その時に「悪い方」に取りがちだというのがわかったのはよかった。かといって、自分の感情を、事務連絡のテキストに載せるのは割と難しい技術なのだ。感情を載せようと思うこと、感情を自覚すること、それを他者に示していいのか判断し加工すること、文章表現の仕方、絵文字の選び方……。それを全員にやってもらうのはまず不可能。だから、書かれたものを過度にマイナスに評価しない訓練の方が役に立つ気がする。元気モリモリポジティブなときにはそれができるものの、疲れてくるとすぐネガティブ寄りになるから難しいんだけど……。やはり事務連絡であっても適度にビデオ会議を入れる(顔を見て話す)、事務連絡とは関係ない雑談を意識して取り入れて相手への信頼貯金を崩さないようにする、あたりかしら。なおnoteの記事に書いた「信頼残高」というのは私の造語ではなく、スティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』に出てくる概念。念のため関連サイトから引用。
人間関係において、ある人と信頼関係がどのような状態になっているのかを考えるための、わかりやすい比喩表現を紹介したいと思います。
それは「信頼残高」と呼ばれるもので、信頼関係の程度を銀行口座の残高にたとえたものです。
銀行口座の残高を増やすには、お金を預け入れるか、預け入れたお金の利子で増やすしかありません。残高があれば引き出して使うこともできますが、引き出してばかりだと残高は減っていき、しまいには底をついてしまいます。信頼残高も全く同じです。礼儀正しい行動、親切、正直、約束を守るなどの行動を通して信頼残高をつくっていけば、そこに蓄えができます。銀行口座に利子がつくように、信頼が信頼を呼ぶこともあります。
第四の習慣 Win-Winを考える【信頼残高】|7つの習慣 セルフ・スタディ|フランクリン・プランナー・ジャパン株式会社
- あと本書のここ。
うん、そう簡単に納得しなくていいですよ。疑問をもちつづけて、問いつづけることが大切です。納得してしまうと、探求は終わってしまうしね。
(p151)
ギクリとした。納得できないが気になり続けているもの、というのは良いことなのかもしれない。私はすぐ結論が欲しくなってしまい、結論を出して検討をやめてしまうか、結論が出なければそれについて忘れてしまうこともあるのだけれど*5、それでも全然わからないままでずっと気になることもある。*6 それはある面では大事なことなんだなあと思えて、よかった。
*1:今考えれば、尿瓶(尿器)とか使えばよかったのかもしれない。布団に寝たままおしっこできるやつ。だけどそれどころじゃなかったね、その時は。
*2:私が進んだのは看護の分野だった。看護というのは、その人がどうなっちゃおうと(たとえその人らしさを失ってしまったように見えても)命を守り安楽に過ごしてもらえるように、できることをする学問だと思う。あるいは、限界まで、その人らしさを守る、引き出す技術。
*3:駒場の教養にも認知科学の分野はあり、進振りの時に気になってはいた。けれどシンプルに点数が足りなかった。あと、そこまでして(修士に進んだりして)その分野について学びたいのかと自問すると、難しいものがあった(認知科学分野に限らず、あまり学問を究める気がなかったというか、研究に向いているとは思っていなかったので、院進の選択肢はほぼなかった。進学するとまたお金がかかるという問題もあった(学部の時点で奨学金でやりくりしていた))。そもそも認知科学の分野が私の問いに答えをくれそうかどうか、確信があったわけではない。
*4:というか、問いを立てるところから始めるべきなのだ、本当は。
*5:研究者に向いておりません。
*6:ex.石切丸さんのこととか。