単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ:石蓮花

吉川宏志 著 書肆侃侃房,2019

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I029572040-00?lat=&lng=

 

結社「塔」の方の歌をよく気に入るので、現代表の歌集を読んでみた。好きだなあ……。やっぱり好きでした、吉川さんの歌も。

歌集の一首め、

うずうみの岸にボートが置かれあり匙のごとくに雪を掬いて

(p9)

もう好き。「置かれあり」。「浮かびおり」ではなく! スプーンは確かに浮かぶものじゃないよなあとか。ほこりと雪の積もったボート、見たことはないけれど見た気になる。

同じ資料テーブルに置き会議せりコップの水は薄影を曵く

(p69、ルビ「うすかげ」)

下句が好きすぎる。ものと影との接するポイントに着目した歌は、他にp84「ゆうぐれの駅に立ちいるどの人も靴を支点にながき影ひく」がある。どちらも好きだけれど、やはり水の影の方が好きかなあ。コップの影ではなくて、水の影。資料はどれも同じでぺらりとしているけれど、水はきっと置かれる場所で、向きも長さも濃さも違う影を曳いている。それは、きっとスーツで固めている似たような参加者の、内にある個性の違い、みたいなものも秘めているのかも。

白ねぎを噛めば中より細きねぎ飛び出してきて汁熱きかな

p97

こういう、「わかる〜……!」っていう歌の切り取り方も見事。「細きねぎ」かあ……! わかる、初めて聞くフレーズだけど、そう言えば確かにわかる。すごい。そういう時の汁が冷めてなくて「熱い」のもいい。きっとねぎも激しく飛び出してきたことだろう。

 

好きな短歌を作られる歌人の方を見つけられるのは、とても嬉しい。

 

作者がインターネット上に公開している文章に、こういうものがあった。

 

再録「2006年、結社とは何か」 吉川宏志

読者のコミュニケーションの能力が低いときや、コミュニケーションを図ろうとする意欲が感じられないとき、短歌の作者は無意識のうちにわかりやすく説明した歌を作ってしまいやすい。「理解できない」と言われるのは誰だって辛いことだから。しかしそれを続けていては、詩的な飛躍がなく、おもしろみのない歌しかできなくなってしまうだろう。

歌会の経験から、これはわかるなあと思ったくだり。

それと、同人界隈においても、読者のことを信じていないと書けないものってあるんだよなあとも思う。伝えたいことをわかってもらえないのは作者の技量の問題でもあるのはもちろんだけれど、だからといって、誰にもわかりやすい、扁平なストーリーしか書けなくなるのはいやだなあと個人的には思う。やりたいことをやりたい。

もうひとつ。

よく歌会で、「私もこの作者と同じところを旅行したので、よくわかります」とか「私も同じ体験をしたので共感します」という言い方で、それほどおもしろくもない歌に感動する人を見かけることがある。こういう人は、自分と作者を同一視してしまっているのだ。それでは他者の歌を読んでいることにならない。自分の経験をしゃべっているにすぎないのである。

非常に! よくわかる! これは俳句の西村先生が別の場所に書かれていたことでもあると思う。

やはり、「自分が知っているものが読まれている」歌を、それを理由に高く評価するのはどうなのだろうかと思うし、ましてや評として自分の体験をしゃべるのはどうなんだと思っていた。読者としては、「私の大切な思い出を蘇らせてくれてありがとう、素晴らしい歌だ」っていう思いもあるのかもしれないけれど、突き詰めればそれは読者自身の話でしかなくて、歌の話ではない。ちょっと失礼なことじゃないのかと思う。歌はスレタイではない。私ももちろんそういうツボ押しみたいな歌を見つけて好きになることもあるけど、評として口に出す時には気をつけたいなあと改めて思った。