単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

一人でどこにでも行けると思っていた

一人でどこにでも行けると思っていた時期が、俺にもありました。(某ラジオのコーナー「俺にもありました」)

私は一人でどこにでも旅行に行った。前職と現職の間の空白の時間では、一週間かけて滋賀・奈良・京都を一人でうろうろした。二泊だろうが三泊だろうが、行きたい場所と用事が要請するだけ、おうちじゃないところにいられた。

ところが最近、それがあやしくなってきた。

ネレネー山脈

話は変わるが、私は今年2月くらいから、ツイッターでの呟きが減った。一年でいちばんの繁忙期である、年度末である。例年ツイートが減る傾向があるので、それだと思われる*1。私はツイッターから離れて、自サイトとか、別のSNSに文章を投げていた。しかし今年は、2月の末に、急に「ネレネー山脈!!!!」とツイートしてから、ツイートの頻度が割と戻った。

これは、二泊三日の旅先の、初日の夜のことだった。部屋が寒くて眠れなくて、思わずツイートしてしまったのだ。しょうもないクソコロケーションである。こんなことを書き込めるインターネットは、私にはツイッターしかなかったのだ。ブログもnoteも自サイトもその他どんな媒体も、これを受け止める受け皿たりはしなかった。

ただ、この眠れなさは、部屋の寒さだけが原因ではなかった。私はひとりで眠るのが寂しくて、寝付けなかったのだ。

寂しくて眠れない

衝撃である。

5年にも満たない同居の末に、この体たらく*2。一泊目で寂しくて眠れなかったその旅は、二泊目には入眠困難がさらに悪化していた。やんぬるかな。これでは三泊の外出なんてとても無理だ。今後ひとりで四国を一周したくなったら、いったいどうすればいいのだろう?

……と残念に思っていたのだが、先日は二泊三日の旅を毎夜爆睡で通したので、場合によるらしい。

寂しさのベースライン

生まれ育った関東から、圧切長谷部に会うときにしか足を踏み入れなかった*3九州に引っ越して、一年が経った。年に数回は東京を訪れ、知人に会ってはいる。しかし、やはり、知己のない土地に暮らしている身では、常にどこか寂しいのかもしれない。その状態で一人旅に出ると、寂しさがより身にしみる、そういうことではなかろうか。

その証拠に、爆睡御礼二泊三日の旅は、連日知人に会って喋り倒していた。移動の時間以外は誰かと会い、通常の土日の100倍は喋って、翌日も声が枯れ気味だった。孤独とは無縁の旅行でなら、一度も起きずにすやすやと眠り続けることができたのだ。

すると、以前ひとりでどこへでも遊びに行っていた私は――寂しくない状態だったからこそ、旅先でも、一人であることを前向きに面白がれたのかもしれない。

The Homeway

今後は、一人で行きたいところには一人で行き、一人ではちょっとなというところには誰かと行く、そういう切り替えが自らできるといいなあと思う。
一人で旅に行きすぎて、人と旅に行けるのか不安になるけれども、そこは、なんとかなりそうな人と一緒に出かければよいではないか。トラブルをリカバーすることができる人とか、トラブルを笑って流せる人とかと。

一人でどこにでも行けると思っていた。一人でどこにでも行けても、一人で過ごし続けることはもうできないのかもしれない。帰る場所があり、待っている人がいることを噛み締めながら、私は来月も大阪に行く*4

*1:特別、長時間働いているわけでもないのだけれど、それでも脳は圧迫されているんだろうと思う。

*2:書いていてわかったが、離れていた時代の長さと、同居していた時代の長さが、だいたい同じくらいになっていた。

*3:正確にはそれは嘘だが

*4:ヘタミュが取れたので! 同時に、たぶん私が目にするのはこれが最後になるだろう、復元刀石切丸を見てきます。