単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

だけどこれも全部過去になってしまうんだよな

っていう気持ちになることがある。古い記憶だと、中学校を卒業する前とか。最近だと、引っ越す前とか。

原稿を書くのにちょうどいい場所を見つけた。最近も(原稿をしているので)よく、そこにいる。こんなに気持ちのいい明るい場所で、他人の気配やざわめきがある中で、おいしいサンドイッチやケーキやコーヒーをいただける場所で、好きなことをしている、休みの日。だけどこれもいつか過去のことになってしまうのだ。なんだそれは。頭を抱えたいような気持ちになる。これは予期寂しさのようなものだ。予期しているだけの寂しさ。

 

私の何かが、「こんなに奇妙な形をしているのだからきっと価値がないのだろう」と思っている何かが、それでも、表に出しておくと、誰かが、おっ、と思って拾って行ってくれることがある。それが嬉しい。これは二次創作小説を書くときによく言っていることだが(「洞窟の壁を滴り落ちる水を汲んでラベリングして道端に置いておくといつの間にかなくなっていて、人が持って行ってくれたんだ……」と思う、みたいな話)、なんというか、これは二次創作に限らない話なのかもしれない。私にとって。

 

 

この間図書館で短歌の書棚を見ていたら、あまりにも既存の秀作ばっかりで、「私がやる意味、あるか?」という気持ちになった。そして、おお、これが「私がやる意味あるか?」という感覚か、と、ちょっと内心で盛り上がってしまった。二次創作をしているときにはそう思うことはほぼないのだけど、まさかの別ジャンルでその感覚を自ら味わうことになろうとは、驚きだ。

私はどうして歌を作るのか?

多分、そこが固まっていない(言葉にできていない)ということなんだろう。しんどかったから詠んでいた歌には「私が作らないとどうにもならない」という事実があった。それはそうだ。歌を作る過程そのものが私の癒しだったのだから。「歌を作る」ことが必要だったのであって、「私が作った歌」が必要だったわけではない(いや、必要ないということはないのだけど、私が作った歌はあくまでも副次的なものだった)。

ああ、これは、今書こうとしている新刊の話と同じだな(メゾンに書きました)。「その本」を欲しい、というよりか、その本を書き切って形にするという経験、が私に必要なのだと思う。それは、まず書かないと手に入らないわけだから。それで、書いている。すんごい遅いけども。これで満足いく本が、8月21日までに仕上がるのか、もう全然わかんないけど。まあいい。どっちでも。

 

 

やりたいからやる。何が付いてくるのかはともかく。そういう感覚を、私は多分得意としている。だけど、付いてきたものを、誰かが目に留めてくれたり、手に取ってくれたり、話しかけてくれると、嬉しい。それは創作物のことであっても、来し方全般のことであってもそうなんだろう。私には色々と欠けているものがある(と、思っている)けども、それでも、欠けていない部分、あるいははみ出している部分を、好きだと思ってもらえるのは、嬉しい。それがたとえ大勢ではなくたって、結局、覚えて愛していられる人数は限られているのだから、いいんだ。

 

 

オタクではない知り合いが、私を人に紹介しようとして、「何かたくさん書いている」と言ってくれたことが嬉しかった。たくさん書いている。それが、未来の自分の何か役に立つだろうと思っている節もあるけど、やっぱり、「今書きたい」から書いているだけという部分も大きいから(この記事とかね)、それが思いがけず誰かに拾われると嬉しい。期待値を下げておけば落胆せずに済むとか、まあそういう面がないとも言えないけど、まあいいじゃないか。ね。

 

 

これも全部過去になってしまう。書き留めて置けることは少ない(かもしれない)けど、書いておきたいなと思ったときに書かずにいることはほとんどないし、まあこれで不足は感じてない。それでいい。商売ではなくものを書いていられることを、多分喜んでいい。それは言い訳ではないのかとか、やればできることをさぼっているのではないかとか、思わないこともない。私はそういうことを思いがちな性格をしている。でもまあ、やりたくて本気を出しているわけでもないことを、あんまり気にしない方がいいようにも思う。