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ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ:取材・執筆・推敲 書く人の教科書

古賀史健著(ダイヤモンド社、2021)

取材・執筆・推敲 : 書く人の教科書 (ダイヤモンド社): 2021|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

 

先日書店で豪遊した際にお迎えした本。何かの記事で紹介されていたのを見た、ような……?

あまりに面白いので抜き書きしたくなった。覚えておくには長すぎる本(476ページある)。

一方、自分(黒澤)のような凡人は、すぐに描き上げてしまう。筆が速いのではない。一流の画家たちに見えているものが見えておらず、浅はかなレベルでしか対象を見ていないから、すぐに描き上げてしまうのだ。ほんとうはまだ、描き上げてはいけないのだ。見る(読む)べき対象は、もっとあるのだ。(p54)

「よく書くことは、よく見ること」って昔美術サークルの知人が言っていたのを思い出した。見えないものは書けないというのはよくわかる。それは本当にそう。

どのみち本は、一生をかけても読みきれないほどたくさん存在する。そして再会すべき本には、人生のどこかできっと再会する。「積ん読」の本がどんなに増えてもかまわない。お勉強の意識を捨てて、片っぱしから手に取っていこう。(p70-71)

立花隆も言ってた! 『お勉強の意識を捨てて』は、最近意識して、いろんな本を気軽に借りて開けるようになってきた。以前は、本を読むなら最初から最後まで一言一句読まなきゃ……と思っていたけれど、面白ければそうすればいいし、そうでなければパラパラ眺めるくらいでもいいかな、くらいの気持ちで。
『再会すべき本』の話は実感としてわかるように思う。
横道だけど、文中で「つくって」が開かれているのは、「作り上げる」みたいな意味合いとはまた違うからなのかしら。

取材とは、あなたの立てたプランを答え合わせする場ではない。企画書をなぞり、質問表を読み上げる場でもない。
「気がついたら、こんなところにまできてしまった」
「おかげで、はじめてことばにすることができた」
お互いがそう思える取材が、最高の取材なのだ。(p98-99)

この間の越境ジャンル推しすごろくじゃん!*1
雑談ができるのは親しさの表れということも書かれており、推しをもつ者たちは互いにすぐ親しみを感じてしまうのかもしれない。
 

すぐれたエッセイストたちは、乱暴に感情を吐き出すようなことはしない。
観察者である彼ら・彼女らにとっては、「映画に感動して泣いているわたし」さえも、観察の対象なのだ。喜怒哀楽の渦に巻き込まれた自分を不思議がったり、愛想を尽かしたり、おもしろがったりする落ち着きを、みな持っている。
そしてエッセイストたちは、みずからが観察したもの(自分という人間も含む)を、克明に描写する。「意味」に偏った抽象画ではなく、ただ「わたしの見たもの」を写生する。そのていねいな情景描写が、心象風景とシンクロしていく。たとえるなら、 一輪挿しの花を描写するだけで、さみしさが立ちあらわれる。「さみしい」とか「孤独だ」とかの直接的な感情のことばに頼ることなく、みずからの心象を描いていく。
確かな観察眼と、描写力。そして「巻き込まれた自分」までも観察の対象としてしまう、「わたし」との距離感。感情のことばに頼ることなく、手の届く範囲の世界を観察し、変化する自分のこころを観察しよう。すぐれたエッセイとは、虫めがねを片手に書かれるものなのだ。(p315-316)

良いなと思って長く引いた。
エッセイの話ではなくて、二次創作小説の話になるけれど。自分が二次創作小説を書くときに、感情を書いているつもりがそんなにない。けれども、人から「感情を書いている」と言ってもらえることがある*2。それはどうしてなのだろう? 人から、情景描写に心情描写を重ねている、と評していただいたのを思い出して、「そ、そういうこと……? でも、そんなことができるのだろうか(うまい人にはできるのかもしれないが、私にそれができているのか?)」となっていた。そこにこのくだりを読んで、感情を感情として描かなくても、やはり感情は書けるのだな……と安心したというか、ちょっと嬉しくなったのだった。観察と描写が心象を表してくれるならば、私はそれを磨けたら嬉しいなと思う。感情そのものをきちんと書ききる体力も、欲しいし、研鑽を積みたいけれど。
あと、「取り乱す自分を観察する」は、観劇の時とかによくやる気がする。
 

しかし、「感情の記憶」は別だ。これだけは本から学ぶことも、検索することもかなわない。あなたという人間が、日々をどれだけ真剣に生きているかが問われる領域だ。取材者の意識をもって、「生活者としてのわたし」の微細な感情を観察し、記憶していくようにしよう。(p357)

読み手に伝わり、意外性のあるレトリックは、自分の感情体験のストックから生じる……みたいな話。
この話の少し前に、安易に思いつく比喩から少しずつ転がして表現を探していこうという話があった。俳句や短歌の「つきすぎ」「ついてる」を思い出す。二つ離れた距離の言葉がちょうどいいんだっけ、俳句……?
 

推敲をはじめるにあたって気が重いのは、まだ「書き手としての自分」から抜け出せていないからである。苦しくとも推敲に取りかかれば、どこかの段階で「読者としての自分」が優位になる。「書き手としての自分」が赤の他人 推敲作業に準じていうなら「朱の」他人――になり、ダメな自分と向き合うつらさが薄れていく。むしろ、いまよりもずっといいものができていく快感に浸ることができる。
書き手として未熟だから、推敲が必要なのではない。読者としてすぐれているから、推敲ができるのだ。

これはちょっと励まされる話。私は本を作る前には原稿を組版して印刷して、紙の上で赤入れをする。間違いを発見するなどして気が重いこともあるけど、紙面が赤くなっていくと「推敲前よりよくなっている……!」と思えて、好きな作業。それは書き手の私が未熟だったからではなくて、読み手の私がよくできているから、というのは嬉しい話だ(読み手は読んで文句言うだけなイメージがあったので)。
推敲が好きなのは、校正が好きだからというだけではなくて、自分の書く話が好きだからかもしれない。好きな話を腰を据えて読めるのは嬉しいもの。
 

ライターは、時給労働者ではない。
ひとつの原稿を10日かけて書こうと、1日で書いてしまおうと、読者にとってはどちらでもいい。「こんなにがんばって書いたのに、評価されない」や「こんなに時間をかけたのに、読んでもらえない」の事例は、いくらでもある。(中略)
10日かけて書いた原稿に10日ぶんの評価と報酬を求めるのは、タイムカードを手にした時給労働者の発想だ。(p451)

そうなー。そんで、読んで楽しんでほしいと思うなら、時間を惜しまずに書く、と。ただし、かけた時間と評価は正の相関にない。それでもいいと思うか? それでも全力を尽くすのか?

 

あと、引用ではないけれど、印象深いところ。

  • 読んで嫌いと感じる文章の理由を突き詰めると、自分という人間がわかってきて、自分の進むべき道がわかってくる(p75-「わたしという人間を読むために)
  • 10年後も読まれる文章を書くためには、10年前の人にも面白く読めるように書く(『嫌われる勇気』は100年前を意識して書かれた。100年後にも読み継がれるために)。また、使う言葉も、20年前や30年前からある言葉にするとよい。流行りの言葉はいつ廃れるかわからない(p316-「コンテンツの賞味期限をどう考えるか」、p361-「レトリック④ 文章力の筋力トレーニング ①慣用表現を禁止する」)
  • 自分の文章を客観的に推敲することは難しい。自分の原稿から距離を置く方法3つ:①時間をおく(一晩でも)②現行の見た目を変える(縦書き→横書き、明朝体→ゴシック体、フォントサイズなど)③推敲前に人に送ってしまい、「あの人ならどう読むか」と考える(p396「自分の原稿をどう読むか」)。あと音読。音読すると違和感を察知できる。
  • 編集者は「まだない、読みたいもの」を要求し、ライターは嘘をつけないみたいな話、読み手ゆあれと書き手ゆあれじゃんとなった。読みたいものをワアワア言うゆあれと、「書けるかー!!(と言いながら書くときもある)」となるゆあれ。編集・執筆・デザイン全部やって一冊本が出るのすごいな。えらい(p442-「ライターに編集者が必要な理由)。
  • うまく書けなくてやる気が出ないときに、自分の過去の傑作記事を読み返す、という話。「もっとできるはず」と自信を取り戻すというやつ。いい話(p453-「やる気が出ないほんとうの理由とは」)

 

よ、読み終わった……。
こんなに長い本を読んだのは久しぶりだ。なんなら読み終わると思ってなかった。読み飛ばしはしていないつもり。面白い本は読めてしまうんだな、長くても……。それを体感できただけでも、よかった。
私は取材をするライターではない。けれど、noteやはてブロに記事を書くときに思い出せそうなことがぱらぱらあって、よかった。ライターたちについて「書くのが好きだが、本当に言いたいことがあるわけじゃない」というのは、私の話としてわかる気がする。ただ、編集者的な私が、「こういう記録をつけておいたら便利じゃない?」と言うので、書くときもある。

*1:話が脱線するとだいたいいい話が出てくる。そして話者自身にも予想できなかった推しコメントが飛び出し、推しの輪郭が、自分の思いが、ますますはっきりしてしまうのである!

*2:私が無意識に感情をダイレクトに書きまくっているだけかもしれないが……。