単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

部分的に読んだ:もうすぐ絶滅するという紙の書物について

ウンベルト・エーコ, ジャン=クロード・カリエール 著
工藤妙子 訳

もうすぐ絶滅するという紙の書物について (阪急コミュニケーションズ): 2010|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

 

タイトルに惹かれて手に取ったはいいものの、分厚いしどうしようかなと思いながらページを繰ると、特に天地の余白がしっかり取ってあって、読みやすそう! と思えたので読んだ。組版は大事。

あと、これ、小口染めですかね? 天は色なし、小口が天から地に向かって青く染まっていって、地は真っ青なんですよ。紙の書物じゃないとできない遊びだ。

 

そう、これは、紙の書物が大好きな二人と進行役、三名の対談の記録。かなり飛ばして読んだ中で、あまりに面白かったところを引用する。

 

どんなに執拗に過去の声を聞こうとしても、図書館、博物館、シネマテークにあるのは、時が抹消しなかった、もしくは抹消しえなかった資料だけなのです。今日いまだかつてないほど実感されるのは、文化とはすべてが忘れ去られたのちになお残るものにほかならない、ということです。(p14)

と、東京心覚……!! note.com

"歴史は……歴史はね。勝った方が残したものでしかなかったんだね。本当のことなんて誰も覚えていない"って水心子が言ってた(うろ覚え)。

なんか、こうして、後々にもひとりでに胸に蘇るような言葉をもらえて、幸せな観劇体験だなあ。

私は私の書いた文章を、物語を、永遠にしたくて製本しているとよく言う。けれど、その「永遠」がどの程度のものかを知ることはできない*1。ただ、すべての本が燃えて朽ちても、まあいいか、と思う。「私を離れて、誰か別の人間の手元にある」ということが、もう永遠っぽい気もするから。私の望みは今現在進行型でたぶん叶っているんだろう。

そういえばこの本に、本には肉体と魂があって、肉体の方は朽ちていくものだという話もあった。肉体(物理本というか)、たしかに、私の本棚のコバルト文庫とか紙が変色しているもんな……。ただ、本の魂(書かれた内容?)については、誰か私でない人間に宿った時点で、ああ永遠だなあって思うことができるのと、本の魂はたぶんどこかの「すべての本」の記録庫にきちんと記録されているんだと思っている(これはファンタジー)。

 

E: (略)時にはしつこく訊かれることもありますよ。「サッカレーの『虚栄の市』は読みましたか」とか。あんまりうるさく訊かれるのでしかたなく、『虚栄の市』を読もうとしたことが過去に三回あります。しかし、どうしても途中で投げ出してしまうんです。

C:それはいいことを聞きました。私もいつか読もうと思っていまだに読んでいないんです。どうもありがとう。(p364)

 本が好きな人の会話だ。大好き。

 

本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくものではありません。その点をはっきりさせておくのは素晴らしいことですね。本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。そのまま一生読まないのかもしれませんけどね、それでかまわないんですよ。(p382)

 この間『立花隆の書棚』を読んで(見て?)、物事について知りたいと思う気持ちがとにかく大事で、知らずにいるのは自分に責任のある愚かなことであって、斜め読みでもいいから本をたくさん読むのはいいことらしい(本をたくさん集めることも)、という気持ちになったところだった

それで、本書にこう書いてあって、それはそれは嬉しい気持ちになった。私の本棚にも、まだ読めていない本が何冊か刺さっていて、それを気にしたことはあんまりないんだけど、やっぱり気にしなくていいんだな、と思いました。読むときが来たら読むし、来なければ読まない。

 

訳者あとがきも本への愛に溢れていて素敵でした。

紙の本、絶滅してほしくない……。自分の本、作れるだけ作っていこう……。

*1:国立国会図書館に納本したものは多分それなりに長期間大丈夫だろうが( https://twitter.com/your_re/status/1417441164576235526 )