前回の続き。
全部こちらのKindleから。
横光利一作品集: 全51作品を収録 (青猫出版) Kindle版
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欧洲紀行
読み切った!
次々回のオリンピックが日本に決まったと発表された時、現地の日本人が「マジか……」「できんの……? うち……」みたいな雰囲気になったみたいな描写があり、令和でもおんなじですわよと思いました。
しかし入場の順番とか選手の様子とかよく覚えていられるな……と思いました。これイベントレポだよね……? 自分が観劇した時の感想メモとか、順番は破茶滅茶だし「よかった」「何も覚えてない」のどちらかになるんだけど。推しではないからか? それとも作家の観察眼なのか?(その2択はどうなんだ)
御身
幼い子への愛情の視線を感じる。姪っ子に懐かれたい少年かわいい。
汚ない家
エッセイ。菊池寛さんが出てくる。
家が汚いと訪問者の態度が悪くなるみたいに書いてあって、場の整い方で振る舞いが変わるというのは分かる話だと思った。
罌粟(けし)の中
外国に行った時の浮かれた気持ちと慎重な気持ち! ハンガリー行きたいなあ。よく書くことはよく見ることだ、とまた思う。
作家の生活
1934年。エッセイ? 作家としての考え方の記載。マーカーいっぱい引いた。
『観察をすると有効な場合はあるが、観察したことのために相手が変化をしてしまうので、もう自然な姿は見られない。』*1
不確定性原理じゃない!?(一応調べたけど不確定性原理自体は1927年に言われ始めたらしい) 不確定性原理を念頭に書かれたのならば物理学に通じるところ大変好き……となるし、そうでないのならば真理突いてきてしまう鋭さ好き……となる。
『私はたとい愚作であろうとかまわないから、出来得る限り身辺小説は書きたくないつもりである。理由といっては特に目立った何ものもない。ただ一番困難なことを私はやりたくてならぬ性質なのである。』*2
一番困難なことをやりたい横光さん。
前に川端康成氏が『横光氏は「私小說」を書かないといふやうな點からばかりではなく、作品では寧ろ自己を隠さうとつとめてみると、簡單には云へないこともない。隠さうとつとめてゐるとは、乘り越えようとつとめてゐるといふのと同じやうな意味で、そこに横光氏の計算があり、その計算に於て、自己の輝きを放つてゐると見ることも出來る。』って書いてたのを読んだのを思い出した。うわあ。ちょっとうまく言葉にできないんだが。
横光さんは身辺小説を書かない*3理由として「私小説は簡単なので」と言い、川端さんは「横光氏が自己を書かないのは自分を乗り越えようとしているのだ」って……? 横光さんがなぜ私小説を簡単だと言うのか私はまだ横光さんの言葉からは読み取れてないんだけど、どこかに書いているのか、そうではなく川端さんが読み取っているのかわからない。どっちだ。どっちもありそう。うわあ。
『書く場合に書くことを頭に浮べて思うとき、いつも、これは自分にはどうしても書けるものではないと思う。しかし、もう一度考えて見ると、自分以外のものでもどんな大天才を昔から掘り起して来たところが、やはり書けない部分がそこにひそんでいることを感づいてくる。そうなると、作家というものはもう慎重な態度はとっていられるものではなくなってしまう。』*4
自分が何か書きたいものがあったとき、技量的に書くのは無理では、と思った時に思い返したい言葉。(私の場合はわりと、以前に人にかけてもらった言葉を思い出して励まされて何とか書いてみる、ということもある。)
時間
やった!!!!!! 好き!!!!!!!
最初に読んで好きになった「機械」にちょっと似ている。私は横光さんが書かれる、登場人物たちがわけがわからなくなって殴り合っているところ(一文がすごく長い)が大好きなんだ……。
「時間」は最後に救いがある感じがなお好き。良い。
静かなる羅列
川バトル。「蠅」もそうだけど、人間以外に焦点を合わせて人間を見て描写するのが面白い。人間が滅亡しがち。
上海
長い!!!!!!!(嬉)
時代背景に明るくなくて理解しづらいところも多い。でも、上海の独特の清潔でない感じ、舞踏場の美しさとか、知らない街を詳細に読めて嬉しい。工場に暴徒が流れ込んで破壊や火災が起こるシーン大好き。横光さんの書かれる暴力というか、破壊や攻撃を伴うパワーは不思議に好き。
確か横光さんに上海に行きなって言ったのは芥川さんだったはずで、ありがとうございます、と思う。
純粋小説論
新感覚派とコンミニズム文学
新感覚論
このへんは文学論? とか呼ばれるのだろうか(術語がわからない)。書かれていることが難しくて全然理解できない。最後のやつは割と喧嘩腰に見えるんだけど大丈夫だったんだろうか。
神馬
神馬さんの目から見た一日。豆を食べたり牝馬に気を散らしたりする。脱走した時に与えられた罰を覚えていて「あんなめにあわせやがる」と悪態をついたりしてかわいい。
動物の目から見た人間の営みを書かれる時、人間へのぬくもりのある視線をどうしても想定してしまって勝手に嬉しくなる。
睡蓮
エッセイ? 仲睦まじい夫婦を見ての感想が、横光さん自身が愛のある人だったんだなあという感じでとてもあったかい。人肌のあったかさには厭わしさもあるけれど、愛おしさも他に代えがたい。
亡くなった人の遺した歌集を読んで、その人を思い出したり、評価を変えたりするのを見て、文章を後の人が読める形で残すことの影響の大きさを思う。和歌に、その人の心根の真っ直ぐさ、景色を見る澄んだ目を感じるのは、性格と技量の両方がきっと必要。
しかし横光さんが「怒ると大声を出すので、新居の土地を探す時に周りが開けているところが良かった」みたいに書いているのが面白い。
これでこの本の3割か4割くらい。また何回かに分けて書くと思う。Kindleはマーカー引いたところをテキストデータで吸い出せるので便利。線を引くのもためらわなくていいし。