単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

読んだ話のメモ:川端康成

一冊丸っと読めてはないけど、読んだ話とか、手には取った本とかの記録。ネタバレする。

 

眠れる美女 新潮文庫(1967)

https://www.amazon.co.jp/%E7%9C%A0%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%BE%8E%E5%A5%B3-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B7%9D%E7%AB%AF-%E5%BA%B7%E6%88%90/dp/4101001200

めっちゃ参考文献で見るやつ。

あの……最後死んじゃうの……そうか……。老人と少女の組み合わせをこんなに執拗に鮮やかに描けることに驚く。あとどうしたら処女かどうか区別付けられるんだ……? 処女膜……って触知できるのか……?(どうしても気になっている)

 

掌の小説 新潮文庫(1971)

https://www.amazon.co.jp/%E6%8E%8C%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B7%9D%E7%AB%AF-%E5%BA%B7%E6%88%90/dp/4101001057

途中までしか読めていない。

18の頃に書いたものに手を入れた(だったと思う)祖父の火葬の話が最初の方に入っていて、18だろうがなんだろうが書けてしまうのね……と思う。

日記のようなのもあり、短編小説もあり。

どれか忘れてしまったけれど、軽井沢の噴火の話と、土手で虫を捕る少年少女の話が印象的だった。

 

弔事類 川端康成全集 第34卷 新潮社(1982)

川端康成は多くの人の弔事や葬儀挨拶を任されてきたと聞くが、あまりにも横光利一弔事ばかりが引かれる(本人も自分の集にしばしば入れたと聞く)ので何なんだと思って一通り読みたかった。

横光利一弔事は明らかに熱量が多い。と思いました。

何度も言っているけど、人の死に寄せられる言葉が美しいと感じてしまう自分の情緒をどうしていいのかわからない。

この巻の最後の方に、「少女の友」作文欄「選者の言葉」が収録されている。女学生たちへの言葉。原稿を綴じなさい(綴じないで送るのは着物の前をはだけて歩くようなものだ)とか、盗作は必ず誰かが発見してひどい恥になるからやめなさいとか、誰々さんは同じテーマで書き直してきたが上達のためには書き直しは良い心がけだとか、書いたものの写しを手元に置いておきなさい(数十年して当時の思いを振り返ることもできるから)とか、色々心のこもった言葉が並んでいる。ゲームの「若い人を育てるのが私らの役目」って台詞を思い出す。

 

横光利一 川端康成全集 第29卷 新潮社(1982) p121-124

横光利一は文学が大好きというわけではなかった、とか、できるなら書きたくない、みたいなことをどこかで見かけていて、どういうことなのか気になっていた。少しだけ引っかかる部分があったので引用(p123)。

『横光氏は「私小說」を書かないといふやうな點からばかりではなく、作品では寧ろ自己を隠さうとつとめてみると、簡單には云へないこともない。隠さうとつとめてゐるとは、乘り越えようとつとめてゐるといふのと同じやうな意味で、そこに横光氏の計算があり、その計算に於て、自己の輝きを放つてゐると見ることも出來る。そこに反って横光氏の純化された人物の露出が見られ、また矛盾も感じるらしく、絶えず自作を蹴飛ばしたい思ひに騙られる所以であらう。』

自分を書くまいとするほどに自分が明らかになってしまうということだろうか。その人を知りたければ何を書くかではなく何を書かないかを見ろとも言う。書くことに真摯に向き合えば向き合うほど、やりたいこととやっていることの噛み合わなさにもどかしくイライラするものなのかもしれない。

 

天の象徴 川端康成全集 第29卷 新潮社(1982) p134-148

まだ読めていない横光利一作品が多く、「天の象徴」は五まで読んだ。それ以降には読んでない話の言及があるので。四はロダンとデユウラアの手の話(p136)。

『四

デユウラアやロダンの手からなぜ横光君の手を思ひ出したのか、今私にはよくわからない。(中略)もしかすると、美しい手、すぐれた手からは、すべて横光君の手を思ひ出すのかしれない。
してみると私には横光君の手の印象が格別深かったといふわけになるのだらうか。私は横光君の手に格別の印象を受けたことがあるのかと考へてみた。しかし格別の記憶はない。横光君の手の正確な記憶すら持つてゐない。
おぼろげな記憶だが、横光君の手は均齊のいい形ではなかつた。圓みのある姿ではなかった。指は細長い方だつたと思ふが、すんなりと伸びてはゐなかつた。少し節立って、いくらか曲ってみた。美しい精神的な手であった。涼しい愛情の手であった。
いつか觸れた時横光君の手が冷かつたのを私は覺えてゐる。人の手は時によって冷かつたり溫かかつたりするものだから、私のそんな記憶で横光君の手が冷いとは言へない。とにかくしかし横光君の手の冷い感觸が私に殘つてゐる。』

亡くなった友人の手を思い返して淡々と描写しているところが、どうしてこんなに美しく胸に迫るんだと苦しくなる*1。しかし「片腕」とかで特にとんでもなく繊細に人の腕を描写する人だし、それが川端康成の力なんだなあとちょっと呆然と思う。さっき横光利一作品の感想記事に書いたけど、物をよく見過ぎて影と光の区別がつかないみたいなことを言われていて、そういう……見えすぎるし、それを厳格に書き分けられてしまうということは、どんな世界に生きている感じなんだろう……。

*1:友達の手を思い出して「涼しい愛情の手だなあ」って思うことあるか?