内田 樹・藤山 浩・宇根 豊・平川 克美著
これは! とても良かった!
農業ってどうなのよと思っていたけれど、違う見方ができるようになってよかったです。国には国の形(広さや地形や気候)があり、それを無視しては続いてゆかない。田舎の土地を守らなければ、川下にある都市は守られない。そういうことが、ちょっと実感としてわかったかもしれない。
あと、経済が成長し続けるのは無理、なぜなら人口が減っていくから、という話とか、それ自体は「衰退」ではなく「成熟」(定常人口のもとで定常的に生きていく)とか。
ご飯は一度に食べられる量が決まっているので、人口が減れば必要な量も減る。その土地で消費するならばなおさら。
それでよく、それでも生きていける(はず)、という気持ちになれた。今すぐ農家になるとかではないけど。
印象深かったところ。
もちろん、地面から金が生えているわけじゃありません。それは誰かの懐から落ちた金です。実際、バブルがはじけたときに、おおかたの日本人は自分の懐の中身をあらかた地面にぶちまけて終わったのです。それは「ものを作る」行為とはほど遠い。
実際に自分の体を使って、太陽を浴びて、雨に濡れて、風に吹かれて労働した後に、その成果として青々とした作物が実り、それを収穫して、食べて美味しかったということの感動は、他の仕事では得られないものだと言います。そして、それが「贈与」であると実感したら、人々は「反対給付」の義務を感じる。当然のことなんです。誰かに贈り物をしてもらったら、「お返し」をしないと気が済まないというのは、人間として当然のことだからです。「おはよう」と挨拶されたら、「おはよう」と返礼する。それと同じことです。贈与されたら返礼する。
農作物は部分的には天からの贈与です。贈与である以上、それを受け取った者は反対給付義務を感じる。この恵みについては誰かに対して「お返し」をする義務が自分にはあると感じる。それが自分の社会的な責務、人類学的な責務であるということを感じる。きちんと「お返し」をしないと悪いことが起こると感じる。それが、価値が生成する現場に直接立ち会う人だけが味わう特殊な経験だと思います。
p39-40
農家の、「この家を続けて行かねばならない」という気持ちは、人間の文化や習慣というよりも、自然と共に生きていて覚える畏怖の念とかからきているのかもな、と思いました。*1
*1:そしてそんなことを、自分の気持ちを言葉にするのが極度に苦手な人間が、土を知らない人間に伝えるのは土台無理なのだ。