内田 樹 著
この間、内田樹「困難な結婚」を再読した。
そこに、「働けど働けど楽にならないのは、あなたのせいではなく、社会のせい」みたいなことが書いてあった。それに、そうか、と思って、内田さんの本をいくつか読んでいる。
面白かった部分をいくつか。
だが、「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方がモラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し警戒心を持った方がよいのではないか。
前にも書いたことだけれど、当代の「格差社会論」の基調は「努力に見合う成果」を要求するものである。
これは一見すると合理的な主張である。
けれども、「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が一〇〇%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名していることを忘れてはならない。おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。
しかし、それはあまりにも幼く、視野狭窄的な考え方である。
人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。
集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。これを「ノブレス・オブリージュ」などと言ってしまうと話が簡単になってしまうが、もっと複雑なのである。
p147
自分のことだけしか見えてないなー、私は、と思う。「がんばらなかったから与えられないんだろう」と、人に向けて思ってしまうのは、上野千鶴子さんが東大入学式の祝辞で「違う」と言っていたよね。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈るということである。
世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなるというタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。
p150
ハッピーに生きていたいよ。
「私は私によって愛されるに足るほどの人間ではない」という自己評価の低さによって私たちは競争に勝ち、階層をはいのぼり、リソースを貯め込むようになる。
私たちが私たちを愛せないのは、私たちのせいではなくて、社会的なしくみがそうなっているから当然なのである。
p270
そうなんだ!? と思いました。今ここにないものを欲しいと思う気持ちのために働いているけれど、そうでないやり方がある? 私はそれを知りたいな。
邪悪なもの、たくさんあるけど、自分がご機嫌で、研ぎ澄まされていれば、最悪なことにはたぶんならないんだな。研ぎ澄まされたいな。直感を磨くというか、切実な場面での判断力とか。やっぱり合気道かな。