単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

マインドフルネスの本を読んでいたら自分に身体があることに気が付いた話

私は自分に身体があることを知らなかったのでは?

私にしては重大な発見だったので書いておく。*1

 

自分の車幅がわからない

私は自分の幅がよくわかっていない。少なくともそう思っていて、周囲にもそう言ってきた。

例えば角を曲がりきれずに壁にぶつかった時とか、歩いていて机にぶつかった時とか、「車幅がつかめないね!」みたいに言っていた。*2

なぜ周りにぶつかってしまうのか

“自分の幅がわからず”周りにぶつかる時の私は、ぶつかりそうだな、とか思わずに、ぶつかる。

ぶつかってから、ああぶつかりそうだったのか、と思う。

自分の幅がわかっていないというよりも、周りを見ていないのだろうか?

これは微妙だ。そこに壁や机があることはわかっている。見えてはいる。でも、ぶつかるとは思っていない。

自分に「幅」はあるか?

『自分の幅がわかっていない』という表現は興味深い。私はそれを初めて聞いた時、「自分の幅が、自分が想定している幅よりも大きい」のだと解釈した。

そして、ほんの少し、違和感を感じていた。その違和感は小さすぎて、言葉にされることはなかったけれど、今はちょっとわかる。

私は「自分に幅があると思っていなかった」のだと。

マインドフルネスがもたらすもの

初めてのマインドフルネス

ところで私は、大学生だった頃に、信頼する好きな先生がいた。その先生が授業で「マインドフルネス」を教えてくれたのが、私が初めてマインドフルネスに触れた時だった。

先生は、私たちにマインドフルネスの概要を伝えながら、「私はマインドフルネスがとっても好き」と笑顔を見せてくれた。

私はその先生の笑顔がとても好きだったので、ぼんやりと「マインドフルネスは素敵なものなんだな」と思っていた。

このたびのマインドフルネス

そこから5年ほど経って。

先日図書館でマインドフルネスの本を見つけて、手に取ってみた。

マインドフルネスが何なのかは、詳しい記事がたくさん出ているだろうから、そちらを参照されたい。*3

本にはこんなことが書いてあった。*4

『呼吸に集中しながら、足の裏の感覚を追う。それからふくらはぎの感覚を追う。何か違いはあるだろうか? 正解はないので、自分の感覚を丁寧に感じてほしい』

自分の幅もろくにわかっていない私ではあるけれど、マインドフルネスの本に書かれていることはかなり納得がいく内容が多かったし*5、せっかくなので思い出したら実践してみるようになった。

ゆっくり呼吸をしながら、自分の身体のあちこち、足、脚、骨盤*6、腹、腕に注意を払い、どんな音がするのか、痛みはあるかとかを、感じ取ろうとする時間ができた。

「この家、広くない?」

それから2日目くらいになるだろうか。

んー……、うまく言葉にできる気がしない。強いて書くならば、「この身体は隅々まで、私のものだったんだな?」っていう感じ……がするようになった。

天井の低い四畳半のアパートで寝起きしていたのに、ある日突然、押入れの奥に2階建の5LDKが広がっていることに気がついた感じ……伝わる?*7

頭で歩く

周りにぶつかってしまう話に戻る。

私は、「自分の幅を過小評価していた」わけではなかった。「自分に幅があると思っていなかった」という方が、たぶん近い。さながら数学の問題に出てくる点Pのように、自分に大きさがあると思っていなかった。身体を実感できていなかった。肉体を、痛感していなかった。*8

机が目の前にある。私はそちらに向かって移動する。何となく避ける。そして、ぶつかる。

この、「何となく」……何となく避ける距離や方向には、思い返してみれば、ほぼ根拠がない。*9「避ける動作をした」ので「避けた」と思っていた。

私は頭だけで歩いていたようなものだ。バーチャルに。点Pのように。

だけど、それで「避けられる」かどうかは運だ。頂点Aを出発した点Pは、実際には計算よりも早く頂点Bに到達するだろう。幅があるからだ。また、目をつぶってバットを振る打者が「振ったので、当たる」と言っているのを聞いたら「バカだ」と思うだろう。当たりっこない。ボールはバットをすり抜けて落ちる。私の身体は机にぶつかる。

なぜ身体に気が付かなかったのか

これはわからない。何で私は自分に身体があることを、この身体の隅々までが「私」であることを実感できなかったのだろう?

ご賢察の通り、私は運動神経が大変に悪い。体育の授業は大嫌いだった。身体の動かし方がわからなくて、他の子ができる動きを、どうやったら自分もできるのか、全然わからなかった。

あるいは初めて整体に行った時、先生に「骨盤をこうやって動かしてみて」と言われて、途方に暮れてしまった。身体の扱い方がわからないのだ。*10

不思議だ。生まれた時から一緒にいるのに、何で知らなかったんだろう。

方向音痴の地図は不透明なレイヤー

方向音痴の人と、そうでない人

似たような話について、先日考えていた。方向音痴の話だ。

知人が以下のような話をしてくれた。

『世の中には、方向音痴とそうでない人の2種類がいる。方向音痴の人とそうでない人は、どこかからどこかへ移動するときの意識が違うそうだ。方向音痴でない人は、A地点からB地点に移動する際、どの道をどの方角にどの程度進み、どちらに曲がり……と、過程を思い描いてから進むことができ、進みながらも自分がどこにいるのかわかっている。ところが、方向音痴の人は、A地点からB地点に移動する際、過程がすっ飛んでいて、「A地点にいた。B地点にいる」という感じになるそうだ』

世界のありようと私の視界

この話をしてくれた知人は方向音痴ではない。そして、その話で言えば、私は方向音痴の人だ。A地点からB地点に(運良く)たどり着いたとして、移動の過程は全くわからない。わからないというか、思い出すことが、思い描くことが一生ない。

なぜA地点からB地点に移動する過程がすっ飛ぶのか、しばらく考えていた。思いついたのはこういうことだ。

人がどこかからどこかへ移動するにあたり大事な情報には、2種類あると思う。*11

  • 地図や、実際の地形の情報(客観的な情報、世界のありよう)
  • 自分がいる場所や、見えている景色(主観的な情報、私の視界)

ハリー・ポッターシリーズの映画を見たことがあるだろうか。「忍びの地図」というアイテムがある。この地図は、ホグワーツ城の地図であるだけでなく、城内にいる人の現在地と移動の様子を、明滅する足跡のアイコンで示してくれる。*12

移動に必要な情報を忍びの地図になぞらえると、「客観的な情報」は建物の見取り図としての地図、「主観的な情報」は自分の足跡アイコンだ。

方向音痴でない人にとって、これらの情報は互いに透けたレイヤーのようなもので、重ね合わせて同時に把握できるのではないだろうか。つまり、忍びの地図が完成した状態だ。地図と自分の足跡アイコンが同時に見えているわけである。これでスネイプやフィルチを避けながら、行きたい部屋にたどり着くことができるだろう。

ところが私は、これらのレイヤーはいずれも不透明にできている。重ね合わせて同時に捉えることができない。つまり、忍びの地図の「地図」と「自分の足跡アイコン」は互いに別の紙に書いてあるのだ。そして、それらの紙を同時に見ることはできない。したがって、片方に目を凝らして暗記し、それっとばかりにもう片方に目を移して、何が何だかわからなくなってしまうのだ。

私のありようと私の視界

自分の幅がわからないことと、方向音痴であることは、少し似ていると思う。つまり、環境と自分の視界の対応がうまく取れていないところが。

自分の身体という環境が、どこまで自分自身なのかがわからない。

道や建物といった環境が、自分の視界とどう対応するのかがわからない。

ぶつからないこと

これらの気づきとは全然別に、最近できるようになったことがある。

人混みで、人を避けるのが、少しうまくなったのだ。

これにはこつがある。「視界に入る人を、全員自分だと思って歩く」。

一見して、というか一読してもあんまり意味が通じなさそうな技(?)である。人に口頭で説明しようとしてもうまく伝わらなかった。

私が人にぶつかるのは、相手がどちらに進むのか全然検討がつかないからというのが一因だった。そこで、相手を自分だと思うことで、「相手はこちらに動くはずだ!」という、謎の自信をもって自分が歩けるようになったのだった。*13

これはこれで、自分の身体の捉え直しなんだけれど、そもそも私は自分の身体をあまり自分だと思えていなかったので、こんなことができるのかもしれない。

私の世界

私と環境は繋がっている。少なくとも、触れているか、これから触れるかもしれないものだ。

私は頭だけで生きているわけではない。

こんな、書いてみれば当たり前のことに、改めて気づいたような気持ちになった。面白かったので、書いておけてよかった。*14

*1:ただし、急いで書く。なぜなら今、西尾維新の「混物語」が読み途中だからだ。絶賛「戯言」シリーズのターンなので早く戻りたい。なんなら当該のマインドフルネスの本も読み途中である。いずれも読み終えたらまたこのブログに感想を書く予定。

*2:この『自分の幅がよくわかっていないため、物にぶつかる』という表現は、私の好きな先輩がよく使う言い回しでもある。

*3:何しろ私は早く「混物語」を読みたい。……というのもあるし、まだ読書が途中なので、適切にお伝えできる自信がない。

*4:これも引用ではないので、確かな表現ではない可能性が高い。

*5:確かに、マインドフルネスの考え方は興味深い。本は読み途中だけれど、私が前に書いた「ひとりデート」の話とも通じるものがあるように思う。

*6:骨盤ってどこ?

*7:あなたは自分に身体があると思っていただろうか?

*8:阿良々木暦かよ。繰り返しになりますが、今「混物語」を読んでいるのですって。許して。

*9:根拠がないことをするのは危ない。実習中の看護学生であれば特に、様々な意味で致命的だ。充分にご注意されたい。

*10:でも、骨盤っていきなり動かせる?

*11:方向音痴なので自信がない。

*12:なお、原作小説では、足跡のアイコンではなく「小さな人の形」だったと思う。映画版で初めて忍びの地図を見たときには少しだけがっかりした。まあ、画面がごちゃついて大変なことになるのだろうな、とは思ったけれど。

*13:相手にしてみれば、どちらに進みたいのか判然としないような、あちこちふらついている奴とすれ違うより、明確な意思を持って右に(あるいは左に)来る人のほうが避けやすいだろう。

*14:なお、書き終えるまでにすごく時間がかかったので、「混物語」の続きは明日になりそうだ。戯言がすぎる。