単品と単品

ハンバーガーとチーズバーガーを食べたいときもある

私にとってのケアと喜び その2

これは「人間をケアする」アドベントカレンダー第24日目の記事です。

 

前回は、ケアのどこが好きなのか、という話をしていました。

私は、ケアに限らず何かをするとき、どんな風にしようか考えている時と、完成後に人が感想をもらう時が好きです。

今回は、感想をもらう話の続きから。

出てくる喩えが漠然としていますが、小説を書くとき、旅行に行くとき、パーティーを企画するとき、仕事をするとき、いずれでも同様です。何かを自分で考えて形にするときのこと。

感想をもらって

人から感想をもらうと、自分が関わったことが、確かに誰かに届いたのだなと思います。それは、完成した物事がどれだけ多くの人の目に触れても、私には感じられない感慨です。あれ、まさにエビデンスとナラティブの話?

数字で、何人に届いたとわかっても、その有無や過多は私の満足感にはあまり関連しないように思います。それよりも、届けられた人から、どうだったのかをその人の言葉で語ってもらう方が重要です。

言葉をもらって初めて、自分が何をしたのかがわかる……ような気がします。自分は良いことをしたのかどうか。十分に、あるいは適切に力を尽くせたのかどうか。*1

魔法をかける

『冬嶋さんは魔法をかけたいんだね』と、ある知人が言いました。『魔法を使いたいんじゃなくて、誰かに魔法をかけて、かかったのかどうかを確かめたいんだね』と。

それはとてもしっくりくる表現でした。私は、魔法をかけた相手に、きちんと魔法が効いているのかどうか確かめたいのです。*2

私のかけた魔法がどんな効果を及ぼしたのか、聞き取ることで知りたいのです。伝聞や、見た目の観察だけでは足りない。*3

感想をもらうまでのこと

では私は、「準備する」以降の段階をどう捉えているのでしょうか?

作っている途中

作り始めてから完成までの間は、思い付いて考えているだけの間よりも、私の楽しさは減るような気がします。作るものを考えたことに近づける間、大概はどこかがうまくいきません。旅行のアイデアを出しても、同行者の都合が悪かったり、ちょうど良い時間の飛行機がなかったします。現地に着いてみたら、宿に寝間着がないかもしれませんし、台風が来るかもしれません。現実は厳しい。

その代わり、考えていただけの時よりももっと良いことを思い付いて、実行できることもあります。それは私にとってわくわくすることです。

完成させる時

関わっているものの完成時には、私はあまり感慨が湧かないようにできているようです。

8割がた完成すると、何となく満足してしまうように思います。後の2割を詰める時は、むしろつらいような感じです。その理由は、8割で気が抜けてしまい、期日が迫るまで放置してしまうために、残りを必死でやらなければならないからかもしれません。あるいは、考えていたことが現実に近づいてくると、何となく興醒めなのかもしれません。「私が考えたのだから、それはこんな感じよね」という、ちょっとした落胆なのかな。

あるいは寂しいのかもしれません。私の頭の中だけにあったものが、私の外、現実に見えていることが。

実際に完成した時も、気持ちが盛り上がることはあまりありません。ただ、「終わったな」と思います。ほっとしたり、疲れたりです。*4

他者に広まる

他者にいくら広まっても、その数字を見るだけでは、喜びの気持ちがわきません。数字では実感が湧かないというか、数字には喜びを見出せないようです。ありがたいことだなとは思いますが。*5

ケアする時に

ケアにおいては、どうでしょうか?

ケアでも同じような反応です。つまり、どんな風にケアしたらよいかを考える時と、ケアの結果を相手から聞き取る時に、私は嬉しさを感じます。満足や、高揚や、喜びを。

いただいたご質問に立ち戻りましょう。

冬嶋さんにとって大切なのは「ケアの結果、自分や他人が幸せであること」である、ということでしょうか。ケアするという行為自体に、冬嶋さんは喜びを感じますか?

そうですね、今改めて考えてみると、私はケアするという行為の間、必死です。喜んでいる余裕がないという感じがします。

ケアは相手の人間がいます。だから、私一人が考えているとおりには進みません。やってみて、振り返り、直してまたやってみる。*6 

これで正しいだろうか? うまくいっているだろうか? 相手を傷つけていないだろうか? 

このブログには書いていませんでしたが、私は他人を気遣うとか、相手のために行動するとかが苦手です。他者に注意を払うのは、強く意識していないとできません。まれに何か気づいたことがあっても、あれこれ理由をつけて、手を動かさないことの方が多いです。*7 だから、ケアの間は必死です。いつもより強く注意を払い続けなければ、私は人にケアを提供することができません。

ああ、だから、わざわざ一年の目標にしたのでした。

もう一つ、ご質問に寄せてお返しすると、『ケアの結果、自分や他人が幸せであること』は大事です。私はそれを、「幸せになったよ」と言葉で聞きたいと思っています。

文系の魔女

ご質問はこう締めくくられていました。

「紙とペンでできることが好きだから、その行為や成果がケアにつながるともっといい」ということでしょうか。

これも正解です。私は文章を書くのが好きです。そして、文章を好むこととは別に、多くの人の役に立たなければならないと思っています。*8

その点文章はすごくて、私の文章があれば、私がいなくても、時間や空間を超えて、読んだあなたに私の一部を届けることができます。これは良いです。*9

文章は「書く」といい、魔法は「かける」といいます。英語だと両方”spell”です。文章と魔法は元来似ているのかもしれません。

文系の魔女。

書くことで、多くの人を、少し良くすることができたら嬉しいと、思っています。あとで、どうだったか教えてもらえたら、もっと嬉しいです。

 

 

ご質問、誠にありがとうございました。答えになりましたでしょうか?

さて、今日がクリスマスです。アドベントカレンダーはあと一回残っています(一日飛ばしたので)。せっかくなのでもう一記事書きたいですね。

ではまた。

*1:もちろん、作業を完了した時にも、自分がどの程度の力でそれを為したのか測ることはできるでしょう。ですがそれは私にとってはとても心もとない評価に思われます。

*2:魔法の喩えで言えば、もう一つのお気に入りの「準備する」段階は、どんな魔法を作ろうかと考える段階にあたるのでしょう。

*3:書いていて思い出しました。私は人が発する言葉を、額面通りに受け取りがちです。これは社会的にも困ることがある癖だと(自分でも)思いますが、特に医療者としては致命的な動作でした。医療者は、相手が口で何と言おうと、自分の目で観察したことを信頼して、判断を下さなければならないこともあります。それがプロというものです。でも、私は相手が「大丈夫」と言ったことにそれ以上踏み込むのが苦手でした。あるいは、「やりたくない」と言うことをやってもらうように伝えることができませんでした。ああ、それは医療現場に向いていませんね。しみじみ。患者さんは、医療者に気を遣ったり、強がったりするものです。それに、患者さんに限らず、人は自分がどのようにされればより快適かを知らないことが多いのです。提供する者は、自らよく考え、相手にとってより良いありようを提示しなければならないのです。……と、あまり卑下していると、当時私のケアを受けた人に申し訳ないので補足しますと、上記の理由から、「よく話を聞いてくれる人」だと思われていました。それで、何かの役に立ったことも、あったような気がします。

それと、現職では、相手が何を欲しているのか明示されずとも、考えて提示できるようになってきました。私の変化なのか、提供するものの違いによるものなのかはさておき。

*4:こんな感じなので、「完成後の反省」をすることがあまりありません。完成してしまえば、何を基準に反省したらよいのかわからないのです。関わってくれた人からの反応が、自分の為したことを振り返るよすがになるのであれば、自分一人での反省はとても難しい。

*5:現職ではしばしば数字を扱いますし、数字を読む(解釈する)ことはできます。誰かにとって嬉しい数字や驚きの数字であれば、一緒に喜んだり驚いたりすることもできます。でも、自分のことについては、それほど喜びません。

*6:この行きつ戻りつの過程は、一人だと面倒で飽きるのですが、相手がいると続きます。

*7:なぜでしょうね? 人にさっと手を差し伸べられる友人たちは本当にすごいなと思っています。

*8:これは読者の方にとってはどうでもいいことですが、私が教育を受ける過程で、多くの知らない方に助けていただいたので。

*9:書いた本を、国会図書館に納本してもらったことがあります。いつかどこかの誰かの役に立ってくれれば嬉しいなと思っています。私が死んでも残るものがあると思うと、少し安心します。